1949年

レッド・パージ前の「ショック」 特別な年「1949」年

 松本清張氏が「日本の黒い霧」で述べているように、1949年という年は日本にとって特別な年であった。1月23日に行われた第二十四回衆議院選挙で共産党が前回4議席から一挙に35議席に躍進したことである。わずか4年の間に、非合法政党が合法政党として二桁の議席を国会に擁するという急激な民主化の波が襲ったのである。GHQと吉田政府が受けた衝撃は言葉で言い表せないものがあったはずだ。(同年7月12日付 吉田首相のマッカーサー元帥宛書簡を一読することを薦める)この後、数年にしてこの状況は暗転するが、それはこの労働運動、共産党をはじめとする民主勢力の進出をこのままにしておけないと考える勢力、GHQ、吉田政府、経営者(資本)が一体となって、手段を選ばない方法で巻き返しを図ったからである。

 それと忘れてはならないことは、アジア、特に中国における情勢の急激な変化でる。1946年初頭に国民党軍と共産党軍の対立が深まり内戦状態になり、翌47年夏にはアメリカの支援を受ける国民党軍は東北地方で敗色が濃くなる。48年に入ると人民解放軍は総反攻に打って出て、翌49年に入って北京を開城する。同年10月には中華人民共和国が成立する。この間、朝鮮半島の38度線(*)を境にして分裂国家が誕生した。南側を代表する大韓民国(1948年7月17日)と北側の朝鮮民主主義人民共和国(同10月15日)である。

 (*)38度線とはアメリカ合衆国、英国、ソビエト連邦がモスクワ会議で申し合わせた、在朝鮮日本の武装解除、軍、財閥設備の撤収暫定的境界線。 このようなアジア、日本の動静をみてアメリカは日本に対する政策が、今までの方法では自分たちの望む方向に進まないと判断し、政策転換を図った。それが日本を敗戦前の状態に戻すレッド・パージと戦争犯罪者の追放解除による反共・反民主主義の政策であった。同時にアメリカは日本をアジアの反共の砦としての軍事的前進基地化する狙いを持つにいたった。

 ここでこの一年の主要な出来事を見ておこう。

1月 中国で中国共産党の人民解放軍が北京開城。

1月23日 第24回衆議院議員選挙
------------民主自由党 264議席
------------民主党     69議席
------------日本社会党  48議席
------------日本共産党  35議席

2月16日 第三次吉田内閣成立

2月26日 「行政機構刷新及び人員整理に関する件」決定(失業者170万人見込む) これはGHQ要請の「 経済安定9原則」」(詳細は別項)遂行による。

3月7日 「財政金融引き締め政策」施行。(ドッジ・ライン) (注)1948年12月の「経済安定9原則」
-----@均衡予算と歳入の拡大、
-----A徴税の強化、
-----B融資の限定、
-----C賃金安定策、
-----D価格統制の強化拡大、
-----E為替管理の強化、
-----F輸出振興のための割当適正化、
-----G国産原料、製品の生産拡大、
-----H食料供出の能率向上、
-----I以上の計画を早期単一為替レート設定のため発展強化する、の実施策である。
  具体的には(イ)日銀借入金返済などの債務償還の優先、(ロ)復興金融公庫融資の廃止、などでありインフレーションは収束したが国鉄、公務員の大量首切りを始め失業、倒産が続出し、デフレーションが進行した。アメリカ政府は、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジをGHQ経済顧問として派遣した。なおこれは、日本経済をドルの支配体制に組み込むものであり、現在に至るまで続いている。

4月20日 49年度予算成立

 この予算はGHQの経済科学局(ESS)が作成した予算案を、修正案として国会で可決されたものである。これは所得税減税の中止、公共事業費の削減、そして価格調整費の大幅増額という大企業優先、国民には耐乏生活を迫るものであった。すべての企業には合理化が強いられ、それら企業の労働者に首切りの嵐が襲いかかった。

____________________________________政府案______________GHQ案
________[歳入]__________________5,720____________7,034
_________租税____________________4,122_____________5,146

________[歳出]_________________5,781_____________7,030
_______公共事業費________________750_________________500
_______失業対策費________________150_____________________0
_______価格調整費________________700_____________1,987
_______地方交付税________________710_________________577
 単位 億円
(第二次大戦後の国際金融協調の枠組みに関する基礎的研究 2,009年度成城大学研究助成 成城大学 浅井良夫より引用)

4月4日  「団体等規制令」(別項)発効(日本共産党の非合法化を狙ったもの。1950年6月6日 日本共産党中央委員会公職追放)

4月25日 為替レート 1ドル360円(固定)に (1971年1月まで)。

5月11日 行政機関職員定員法(定員法) 国会に上程。

5月30日 行政機関職員定員法成立。

6月1日 行政機関職員定員法施行。各省庁・専売公社・国鉄・公団・政府関係機関職員 128万名余中28万名余、地方自治体117万名余中13万名余を整理するというも のであった。なかでも、国鉄は62万名余に対して14万名余を整理するというもので あり、労働者には耐えられないものであった。(国鉄はこのとき、運輸省直営の企業から公共企業体に改組された。)

 これにより、国家公務員、公団職員9,280名、地方公共団体職員1,650名計10,930名のレッドパージが行われた。「行政整理、企業整備」の名のもとに行われた隠蔽されたレッド・パージといえるだろう。(戦後史の汚点 レッド・パージ 明神勲著 大月書店)。

7月   GHQ民間情報教育局(CIE)顧問 イールズが、レッド・パージ勧告の演説をする。レッド・パージについてのGHQ最初の公式宣言。

7月1日 「定員法」により運輸大臣 国鉄当局に95,085名の整理基準を提示。

7月4日 国鉄第一次首切り 37,000名。

7月5日 東芝 4,581名の解雇者名簿発表。(7月16日 三鷹事件の翌日に通知)

 下山事件発生。

<下山事件>

 初代国鉄総裁の下山貞則氏が常磐線綾瀬駅近くで、轢断死体として発見された事件である。警視庁の捜査は、自殺、他殺の両方で行われたが、捜査報告書では「自殺した」ことにしている。(ただし正式発表はない)。「他殺」の疑いもあるという曖昧さも残した。このことは日本共産党員、国鉄労働者がこの事件に関与しているのでは?、という疑惑をいつまでも国民の心の中に止めておくための心理作戦(松本清張)なのである。

 この事件は、首切りについて国鉄当局と国鉄労働組合が交渉を行っている真っ只中に起こされた。別の言い方をすれば、1948年末の「経済安定九原則」から「ドッジ・ライン」の実行というGHQの占領方針の流れの中で起こされたのである。この事件の実態は、次の二人の言葉から明らかになるであろう。

 国鉄副総裁(後総裁)加賀山之雄は、”私は下山総裁の死は徒死ではなかったと思う。この事件を契機に国鉄の大整理も暫時進行して無事終了した。そしてこの大整理以後は、今まで組合に押されていたアプレ(戦後派=筆者)経営陣も腰を据えて会社の建て直しに力を入れはじめた。その意味でこの年は日本の経済が立ち直る契機を作ったエポック・メイキングな年でもあった。だから下山総裁の死は貴重な犠牲であった。”

もう一人は  東芝社長(後会長)石坂泰三である。彼は、”実はぼくの(人員)整理断行の決意をさらに勇気づけてくれたのが、ほかならぬ下山事件だった。あの事件に接したとき、ぼくはこれは組合にとって大きなマイナスだ。これならうちの整理も断行できると感じて、大いに勇気を起こした。ぼくの東芝再建には下山氏の死に負うところが大きい。ぼくは今でも同氏の犠牲は当時の混乱したいろいろの争議に大いに役立ったと思っている。同氏の死は犬死ではないと思った。”

 これを読んで筆者は、この事件は日本を動かし管理しているGHQが関わっている、と考えるのである。当時の国鉄はGHQの民間運輸局(CTS)の管理下にあり、その許可なしには貨物列車1本たりとも運行できなかったのである。GHQを出し抜いてこれだけの大事件を起こせる機関(組織)は当時日本には存在できなかったと考えるわけである。

 この事件では、共産党員、国鉄労働者の逮捕・起訴はなかったが主目的の国鉄人員整理は成功したのであり、政府は共産党、国鉄労働組合攻撃のために最大限利用した。また、これはレッド・パージの地ならしでもあった。

* * * * *

7月12日 国鉄第二次首切り 63,000名

7月15日 三鷹事件発生 政府はこの事件の中で、国鉄労組闘争委員会の共産党員、革新的労組員17名の首切りを行った。

<三鷹事件>

 この事件は国鉄中央線三鷹駅車庫に停車していた7両編成無人電車が暴走し、駅前商店街などに突入、住民6名死亡、20名の負傷者を出したもの。国鉄労組三鷹電車区分会の組合員で共産党員12名と非共産党員で運転手の竹内景助氏の13名が逮捕され、12名が起訴された。(一名はアリバイ成立)。共産党員被告11名は無罪。非共産党員の竹内景助氏のみ有罪。竹内氏の単独犯行として、1951年東京地裁で無期懲役判決。

1951年 二審 死刑判決。

1955年 最高裁判決 上告棄却 死刑確定。

1967年 獄死(45歳)。

2011年11月 竹内氏の長男が東京地裁に再審開始を申し立て。

* * * * *

7月16日 東芝 5,581名の解雇通知発送。

8月11日 全逓信労働組合(全逓) 26,000名解雇。

8月17日 松川事件発生

<松川事件>

 この事件は、福島県松川町東北本線青森発上野行(上り普通旅客列車 第412号)脱線転覆、乗員3名(機関士1名、助手2名)が死亡、乗客、乗務員10名軽症を負った事件。

 捜査当局は、当時の大量人員整理(首切り)撤回運動を展開していた、日本共産党の影響下の、東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員が起こした事件とし、共同謀議による犯行として捜査を行った。そして、東芝労組員10名(内共産党員8名)、国鉄労組員10名(内共産党員9名)を、9月10日から10月21日にかけて逮捕した。(裁判については別項)

 国鉄をめぐっての鉄道事件はまだ他にいくつかあるが、ここではいわゆる三大鉄道事件取り上げた。それは、この事件後共産党、労働組合、民主的勢力の活動にブレーキがかけられ、総崩れとなり右傾化が始まり、さらに翌1950年から始まる日本の民主的な労働界を破壊する、レッド・パージの引き金が引かれたと考えるからである。

 これら事件直後の日本政府の対応を見ると、三鷹事件が起きた翌7月16日に吉田首相は”定員法による馘首がもたらした社会不安は、主として共産主義者の先導による・・・”という政府声明を発表している。これはまだ事件の捜査も始まっていない段階の声明であり、明らかに共産主義者は破壊者でありテロ行為を行う怖い存在であるということを、国民に印象づける策略であった。

 それは8月6日付のマッカーサーに対しての《警察権力の中央集権化》についての吉田書簡を見ると明らかになる。そこには 『三鷹電車暴走事件の場合も、政府は干渉せずにいなければなりません。われわれは、今後の捜査計画についてはいうに及ばず、警察の捜査の進展に関しても、まったく知らされなかったのです。国家公安委員会は、それは政府と関係のないことだという立場をとっています。』とある。

 この文章では政府(吉田首相も)、警察はこの事件の埒外にあったのであり、何一つこの事件について発言できる立場になかったのである。

 この時期はまだ、GHQの支配下にあって、ほとんどの事件はGHQによって作られたシナリオに従って進行したのである。特に、ここに記述した三大鉄道事件はそうである。それを裏付ける、吉田首相がウィロビー部長(G2=参謀第2部)に出した8月3日付書簡がある。その中で下山事件について『これをしたためるのは、政府が下山事件について深刻な関心を持っていることを申し上げたいからです。新聞はいろいろ書きたてておりますが、政府は警察に対し捜査の進展につき正確な報告を行うよう命じましたが、今のところ何も届いておりません。それで、貴官の部局が得た情報を何であれいただけるとまことに幸いに存じます。』と言っている。

 このように何も知らない政府が、予断をもって特定の政党、特定の人々を、その事件の実行者であると断定する行為は、明らかに悪意を持った卑劣な行動である。そのことによって、世論が間違った方向へ進んだとしたら、被害を受けるのは大多数の国民であり、そのことによる損失は計り知れないものがあるだろう。

 松川事件が起きた8月17日の翌18日にも、三鷹事件の時と同様、増田甲子七官房長官が、記者会見を行い次のように語った。 『今回の列車転覆事件は、集団組織をもってした計画的妨害工作と推定される。その意図するところは、旅客列車の転覆によって被害の多いことを期待したもので、この点、無人列車を暴走させた三鷹事件よりさらに凶悪な犯罪である。・・・今回の事件の思想的傾向は、窮極において行政整理実施以来惹起した幾多の事件と同一傾向のものだ。』 このとき新聞は《第二の三鷹事件起こる》と書き立てた。三鷹事件のときは吉田首相が『・・・共産主義者の先導による・・・』声明を出していることと考え合わせるならば、政府はこの鉄道事件を利用して、特定の思想的傾向(共産主義)の者の犯行であるという世論誘導を演出したのである。これでわかることは、政府、吉田首相がいかに反共産主義であったかが分かるのである。

 松川事件の被告の無罪を信じそれを立証するために活躍された、広津和郎氏は書いている。

 『現場から261粁余はなれた東京の吉田内閣に、事故の真相が解る筈がないから、内閣の重要な地位にいる官房長官が、そういう談話を発表したということが、いかに軽率で乱暴であるかということに思い当たるが、当時においては、筆者(広津)なども迂闊に増田官房長官の談話を信じ、それを思想的犯罪と思い込まされたものであった。それには六月半ば以来の列車妨害の新聞報道や、下山、三鷹と続いた事件についての宣伝が、いつかわれわれの心に、増田官房長官の談話をそのまま鵜呑みにさせる下地を作っていたのである。筆者と同じように、国鉄労働組合や共産党は、なんというあさはかなことをするものだと当時眉をひそめた国民も少なくなかったことであろうと思う。』

 こうして、共産党、労働組合、民主的勢力に対するGHQ、政府、資本(経営者)の共同戦線が整い、1950年のレッド・パージへの道が開かれた。

《注》この記述には更なる検討が必要である。「戦後史の汚点」を読むことによってレッド・パージはGHQによって起こされたのではなく、日本の政府(吉田首相)と資本によって仕組まれたことが、明らかになったため。そのはしりは芦田首相により立案されている。

9月 在日朝鮮人連盟などに解散命令。

10月1日 中華人民共和国成立。

11月 湯川秀樹博士 ノーベル物理学賞受賞。

この項は「日本の黒い霧 松本清張 文藝春秋」「吉田茂=マッカーサー往復書簡集 袖井林二郎著 講談社」「東京電力」研究 排除の系譜 斎藤貴男著 講談社」からの引用である。
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