労働組合の変遷

戦後労働組合運動の変遷

≪戦前≫

大日本産業報国会

 戦前の労働組合は、政党その他あらゆる団体が翼賛会・報国会に組織されたように大日本産業報国会(1940年11月23日設立)に統合された。この産業報国会は、次の綱領を掲げ550万の労働者を庸した。

1)我等は国体の本業に徹し全産業一体報国の実を挙げ以て皇運を扶翼し奉らむことを期す。

2)我等は産業の使命を体し事業一家職分奉公の誠を徹し以て皇国産業の興隆に総力を竭さむことを期す。

3)我等は勤労の真義に生き剛健明朗なる生活を建設し以て国力の根柢に培はむことを期す。

 報国会の主導権は厚生・内務両省の厚生省労働局・内務省警保局が持っていた。

 解散時期 1945年9月28日 厚生・内務両次官通牒によって、本部、都道府県支部は解散したが実際のところ政府は、その組織機構の温存を図ろうとした。産報をそのまま労使協調的な会社組合・御用組合に再編成することが続けられた。 産報は労働者を強制的に軍需生産に駆り立て、資本家には無制限の搾取を保証する奴隷的労働の組織であった。

日本労働総同盟(総同盟)

 戦前の主要な労働組合であった日本労働総同盟(総同盟)(注)は、次の声明を出し大日本産業報国会に加盟した。「顧れば大正元年8月1日我が同盟が呱々の声を上げてより今日至るまで国の産業と労働者に密着し低賃金の下に喘ぐ労働者生活を防衛し、更に滔々として流れ入れる無政府主義或は共産主義人民戦線の運動に対し、これを権力に拠らずして身を以て撃滅しつつ、建設的なる労働者運動の方向に巨歩を推し進め、その大勢を制し得たるはわれらの誇りとするところである。」(以下略)

(注)1940年7月解散。戦後の日本労働組合総同盟(総同盟)の前身組織といわれている。

≪戦後≫

日本労働組合総同盟(総同盟)

1946年1月17日 結成

[結成時の組合と組合員数] 約86万人 戦前の日本労働総同盟が前身

[1948年2月1日現在の組合と組合員数]

全国繊維産業労働組合同盟___________日本都市交通労働組合連合会

全国化学産業労働組合同盟___________全国専売局労働組合

全国食品産業労働組合同盟___________関東運輸労働組合同盟

全国金属産業労働組合同盟___________日本鉱山労働組合

全国木材産業労働組合同盟___________日本医療団体職員組合総連合

全国印刷産業労働組合同盟___________全国進駐軍労働組合同盟

全国土建労働組合同盟

2468組合 94万3千名

地方組織(各県連合会)を加えると、2,827組合 110万2千名

1946年8月16日 経済団体連合会(経団連)結成

全日本産業別労働組合会議(産別会議)

1946年8月21日結成

[結成時の組合と組合員数]

全日本新聞通信放送労働組合(新聞単一)_________全日本電気工業労働組合

日本映画演劇労働組合_________________全日本鉄鋼産業労働組合

全逓信従業員組合(全逓)________________全日本進駐軍要員労働組合

日本電気産業労働組合(電産)______________全日本港湾労働組合同盟

全日本機器労働組合__________________全国車両産業労働組合

全日食糧労働組合___________________全日本木材産業労働組合

全日本医療従業員組合協議会______________全日本炭礦労働組合

全国生命保険従業員組合協議会_____________全日本印刷出版労働組合

全日本化学産業労働組合

組合員数 130万名(全日本炭礦労働組合 12月15日全石炭へ 117万5千名) <全国組織労働者数 368万名>

 次に産別会議と総同盟の、年代別労働者組織状況を見てみよう。両労働組合とも時代が進むに従い組合数、組合員数を減らしているが、1950年からの産別の減少傾向は、何か特別な原因がなければ説明できないない。

-----------------------産別会議 ----------|-----------------------総同盟--------------------   

__________________組合数 _________組合員数 _________________|_________組合数 ________________組合員数 ____________総労働者数

1947年_______4,066 ____1、146,329 _______________|________2,848 ______________759,279 _____________569万

1948年_______4,353 ____1,228,151 _______________|________3,436 ______________873,470 _____________668万

1949年_______4,120 ____1,020,190 _______________|________3,522 ______________913,827 _____________666万

1950年_______1,394 ________290,086 ________________|_______2,969 ______________835,115 _____________577万

1951年____________197 __________46,708 ________________|_______1,283 ______________313,448 _____________569万

1952年____________197 __________27,401 ________________|____________918 ______________218,829 _____________572万

1953年______________97 __________13,469 ________________|____________909 ______________240,372 _____________584万

(厚生労働省 「労働組合基礎調査報告」より)

産別会議の衰退(その背景)

 1946年1月に来日した極東委員会(別項)のメンバーの一人であるスタントン・バブコック陸軍大佐が、同委員会アメリカ首席代表のマッコイ陸軍少将に送った、日本の国民の状況に関する「覚書」には次のよう記されていた。 「GHQのスタッフや、30歳から45歳くらいの、指導層には属さない、いろいろの領域の日本人(商人、鉱山のコミュニスト、農民漁民たちを含む)の意見を聞いたところを記し、共産党が大きな力を持ちつつあること、・・・(略)」。(天皇観の相剋=武田清子)

 ここで産別会議の組合員数を社会的背景(労働運動に関して)を中心にして見ると、次のようになる。

≪1946年8月 結成時 21単産(注)156万名の組合員を組織していた。≫

(注)単産 産業別単一労働組合の略 同一の産業に従事する労働者を、職種の区別なく単一組合に組織した労働組合。日本では企業別組合が連合し、その上部団体として結成する場合が多い。  

 1946年はGHQの進める日本の民主化政策もあって、新しく組織された全国の労働組合が賃金値上げ、解雇撤回などを掲げて闘いに立ち上がった年である。「10月闘争」(別項)を通して労働運動は急速に盛り上がり、翌年の2月1日のゼネストへ向け、全国の労働組合が、右、左関係なくストライキのために統一して闘う体制が作りあげられた。

 闘争の経過は、

11月26日 全官公庁共同闘争委員会(共闘)(参加組合、国鉄、全逓、全教組など156万 名)が結成され、越年資金の支給、最低賃金制の確立、労働関係調整法の撤廃、不当馘首反対など要求を政府に提出する。

11月29日 社会党の労働組合委員会が労働組合懇談会を主催し、産別会議、総同盟、日労 会議、国鉄、全逓など17組合が参加し、経済的要求で意見が一致して吉田内閣打倒国民大会へと発展する。

12月17日 「吉田内閣打倒国民大会」が皇居前広場に50万人を集め開催される。

1947年

1月11日 「共闘」は「スト体制確立大会」を皇居前広場に5万人を集め開催。

1月15日 全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成される。産別、総同盟、日労会議ほ か、単産を含む33組合600万名が参加した。

1月31日 マッカーサー元帥2.1ゼネスト禁止声明を発表。

3月10日 全国労働組合連絡協議会(全労連)結成 2.1ゼネストに参加するために結集した労働諸団体が主体。総同盟、産別、40団体 446万名(1950年8月に解散命令出る)

1948年

2月 産別民主化同盟結成(民同派、民主化同盟 最後尾に注釈あり)(注1)

「産別会議」の中にできた分派組織で、2.1ゼネスト後活動が表面化した。政治ストライキ反対と共産党による組合支配を排除を目的にした反共・組合民主化組織。

4月12日 日本経営者団体連盟(日経連)結成

6月 総同盟 「全労連」脱退

1949年

≪1949年6月時 15単産 103万名≫

 この年は前年末、GHQから要求された経済安定9原則が実施(ドッジ・ライン)され、「行政機構刷新及び人員整理に関する件=定員法」が2月26日に決定され、6月1日から実施された。7〜8月にかけて全逓2万6千名、国鉄3万7千名(第一次)、東芝4千5百名解雇と全国の労働者に首切りの嵐が吹き荒れた。また下山、三鷹、松川の3大鉄道事故が起こされた年でもあった。

 6月1日 行政機関職員定員法施行。各省庁・専売公社・国鉄・公団・政府関係機関職員128万名余中28万名余、地方自治体117万名余中13万名余を整理するというものであった。なかでも、国鉄は62万名余に対して14万名余を整理するというものであり、労働者には耐えられないものであった。(国鉄はこのとき、運輸省直営の企業から公共企業体に改組された。)  これにより、国家公務員、公団職員9,280名、地方公共団体職員1,650名計10,930名のレッドパージが行われた。「行政整理、企業整備」の名のもとに行われた隠蔽されたレッド・パージといえるだろう。(戦後史の汚点 レッド・パージ 明神勲著 大月書店)。

≪1949年11月 第5回大会時 12単産 77万名≫

全逓信従業員組合(全逓) 36万名

日本電気産業労働組合(電産) 13万8千名

全日本金属労働組合など 17万2千名

12月10日 全国産業別労働組合連合(新産別)結成

1948年2月の産別民主化同盟が主体となる組織

<新産別の目標>  ファシズムおよび共産党の独裁政権に反対し、彼らの企画する暴力革命を粉砕し、平和革命の達成のために社会民主主義政党と共同し、民主主義の徹底を通じ、社会主義の実現を目標として闘う。

1950年

5月3日 「憲法制定3周年記念日」のマッカーサー元帥声明(要点の一部を記載)を出す。

◎ 共産党はいまや公然と国際的略奪勢力の手先となり、ある外国の権力政策、帝国主義的目的及び国際的破戒的宣伝を遂行する役割を引き受けている。

◎ このことは共産党が今後これ以上その破壊しようとしている国家及び法律の恩恵と保護を受ける権利があるかどうかの問題を提起する。さらに同党の活動をこれ以上憲法で認められた政治運動とみなすべきか否かの疑問も生じ・・・として

6月6日 日本共産党中央委員の全員追放指令。

6月7日 「アカハタ」編集部全員の追放を指令。

6月26日 「アカハタ」の30日間発行停止を指令。

7月18日 「アカハタ」と後継紙の無期限発禁を指令して、GHQは共産党の弾圧を公然と開始した。

≪1950年6月時 8単産 32万名≫

5月8日 GHQ労働課は、共産党対策を規定する文書を作成。

  「共産主義的指導者および同調者の名前を確定する」   「できる限り、反共主義的労組指導者を使って、共産主義者の行動を挫く計画を考案する。ただし、いかなる場合でも、GHQが直接参加することがないよう十分配慮する」

6月29日 GHQ労働課長代理ブラッテイが経済科学局長マーカット少将宛覚書「日本労働運動における反共計画」を作成。

「本計画は共産主義者の影響力の弱化と排除を取り扱う。この計画の立案には、日本政府(労働省)、多数派を代表する反共的労組役員およびGHQ労働か全員が協力して いる」と述べている。

7月11〜12日 日本労働組合総評議会(総評)(注2)結成  左翼系組合の産別会議・全労連に対抗して、民同系が結集し、GHQの支持の下に発足した労働組合の全国組織。以後労働運動での中心的役割を果たした。(大辞林三版)

8月18日 反共計画に基づいてGHQ労働課と地方民事部司令官との会議で、レッド・パージ 推進について検討された。そこには、「レッド・パージ計画の推進に当たっては、いかなる場合においても、日本人個人の解雇を地方民事部が命令してはならない。その代わりに、日本の組合および経営者が自発的意思に基づいて、自らの手で共産主義者および業務妨害者をパージすることをGHQは期待する」とある。この後10月9日に労働省労政局長名で各都道府県知事に当てて発せられた「企業内における共産主 義的破 壊分子について」の通達が出される。(塩田庄兵衛)

8月 全国労働組合連絡協議会(全労連)にGHQ解散命令 全労連の活動が反占領軍的であるとして。

≪1951年12月時 5単産 4万名≫(全国組織労働者数 569万名)

注釈

(注1)民同派とは 1946年10月闘争の後東北地方の寒村で結成された「緑の会」運動が、その始まりである。2.1ゼネスト中止後、各労組内で発生した多様な反共グループが、反共の一点で結束した集団。(「東京電力」研究 排除の系譜 斎藤貴男著)

 民主化同盟 産別会議内に作られた反共分派組織、産別民主化同盟(1948年2月14日結成)。目標として「共産党フラク(注)活動による組合不明朗と二重支配による非民主制を排除する」「一切の自由組合として一大陣列に結集する」を目標としていた。総同盟の支持を得ていた。産別傘下の各単産にも波及していた。

(注)共産党フラク フラクション(fraction)活動の略。政党が労働組合などの大衆団体の中にフラクションと呼ばれる党員の小グループを組織し、フラクションの組織的活動によって、大衆団体の活動方向を政党の政策や方針に合致させようとする活動。主として日本共産党の活動にいわれる。

 日本で論議の対象になった例としては、産別会議内における日本共産党のフラク活動がよく知られている。1947年の2.1スト中止後、それまでの闘争における産別会議指導部のあり方に批判が集まるようになった。「世界大百科事典 第二版 平凡社」

レッド・パージに対する政府見解

 レッド・パージは、マッカーサー元帥の声明及び書簡の次第もあり、経営者が自己の企業を破壊から防衛するための措置として行われるものであり、その限りにおいては憲法、労働法、労基法その他の法令に違反するものとは解せられない。

(注2)日本労働組合総評議会(総評)について

1950年7月11〜12日結成。

<結成大会宣言抜粋

 この秋に当たってわれわれは日本共産党の組合支配と暴力革命的方針を排除し、労働者階級の永き要望にこたえ、自由にして民主的なる労働組合によって労働戦線統一の巨大なる礎をすえたのである。

<結成準備大会宣言抜粋(1950年3月11日)

 しかも戦後日本の労働運動の主流をなそうとした極左的労働運動の展開は国際的には共産党の支配傾向が濃化した世界労連と相呼応し、一切の客観的諸情勢と主体的条件を無視して徒に労働組合を暴力革命の動員部隊化しようとした為、労働者の現実の利益は擁護されず、却って反動勢力の台頭を助長する結果となった。

<加盟労働組合、日本労働組合総同盟、全日本労働組合連盟、日本教職員組合、国鉄労働組合、日本炭鉱労働組合準備会、全逓信従業員組合など、組合員数405万人

1989年11月解散 日本労働組合総連合会(連合)に合流するために解散。(Wikipediaより)

総評解散後の労働組合

 総評解散後の日本の労働運動は「連合」と「全労連」「全労協」の3組合が、今日まで活動を続けている。主な違いは、組織の規模が連合のほうが大きいことと、政党支持が連合は民主党、社会民主党を支持しているのに対し、全労連は、支持政党無しとしている点である。

 連合の前身は、全日本民間労働組合協議会(全民労協=1982年設立)、全日本民間労働組合連合会(全民労連=1987年設立)で、1989年11月21日に設立される。53構成組織 680万人。

全国労働組合総連合(全労連)1989年11月21日設立。21単産 73万人(2005年)。
この項は「法政大学 大原社会研究所のウエブページ」から引用した。

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