追放解除

追放解除

 吉田首相は事あるごとにマッカーサー元帥(ホイットニー民生局長も含む)に書簡を送り、政界人・経済人の追放解除の要請(全152通のうちの約1割15通に上る多さである)を行ってきたが、GHQが正式に戦争犯罪人の追放解除を認め始めたのは1950年に入ってからである。

 この年から朝鮮戦争が始まり、アメリカ政府は日本をその最前進基地として利用するには、日本を軍事的国家体制化する必要があり、今まで戦争を指導してきた人材(戦争犯罪人)が必要になってきたのである。同時に、民主化路線の占領政策は、その方向転換を迫られ、反共産主義路線へと舵を切った。(GHQ共産党弾圧参照)

 この反共路線の芽がはっきりと出だしたのは、民生局(GS)次長であったケージスが事実上失脚した1949年5月ごろである。ケージス次長が進めてきた日本の民主化路線は、昭和電工汚職事件をめぐって参謀第2部(G2)部長のウイロビーの反共路線との権力闘争でウイロビーが勝利し、GHQの占領方針は固まった。

1947年3月 公職資格訴願審査委員会設立 

1948年3月 公職資格訴願審査委員会廃止 

1949年2月8日 公職資格訴願審査委員会復置 (〜1950年4月25日まで審査)

1950年10月12日 公職追放者206,000人のうち訴願書類を提出した人数は32,091 人。解除決定10,094人。GHQ承認。 この書簡で、吉田首相は「委員会の審査権限から除外された覚書による追放者(覚書追放者68人)に対しても、将来において貴司令部による決定が期待できますよう、あえて私の個人的な希望を表明しておきます。」と、マッカーサーに要請している。 11月8日 1人解除 11月10日 3,297人解除
(吉田茂=マッカーサー往復書簡集 袖井林二郎著 講談社 「書簡 176」)

 1951年5月1日 マシュー・リッジウェイ司令官(4月1日に更迭されたマッカーサー元帥に代わって)『公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を、日本政府に認める。 6月1日 GHQ 覚書追放者 鳩山一郎、石橋湛山、川上丈太郎など68人の内67件の追放覚書を撤回。 6月18日 公職資格審査会が新設 8月6日 13,904人が解除

 1952年2月〜4月26日にかけて訴願申請8,774人の内7,233人を解除。4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 残りの5,700人全員が講和条約発効によって、自動的に解除された。戦犯の岸信介(後の首相)など太平洋戦争開戦時の閣僚5人のほか、服役中の戦犯が最後まで残された。

 天皇は、敗戦後早々とGHQの連合国軍最高司令官=マッカーサー元帥と会談し、翌1946年元日には現人神から人間天皇に変身し、日本国憲法第一条の地位を占めるに至った。太平洋戦争の統帥者であり、戦争犯罪人の天皇が憲法第一条で、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の總意に基づく」「皇位は世襲のものある」と規定され、日本国は永久に天皇の国家となった。

一方戦争犯罪人の岸信介は、追放解除後に日本を統治する立場=内閣総理大臣に選ばれるという事態が生じた。 このように常識では考えられないような事が、次々と生ずる日本という国家に未来はあるのだろうか。考えさせられる。
◆←前のページ ←戻る