マッカーサーと天皇

マッカーサーと天皇

 1945年8月10日ポツダム宣言受諾直後(無条件降伏)、連合国軍の占領が開始される前の1945年8月17日、天皇は占領対策として木戸幸一の推薦によって皇族の東久邇宮稔彦を総理大臣に任命した。(副総理、近衛文麿)内閣書記官長に朝日新聞元社長の緒方竹虎を起用し、マスメディア対策も怠らなかった。この内閣の任務は、第一に連合国に対して天皇制(君主制)だけが、日本を平穏に動員を解除し、事態を収拾する力があることを示すこと。第二に国体を護持し、天皇の行動を正当化し、天皇戦犯論をかわすことであった。事実、第一については約700万の陸・海軍の兵力の武装解除を実施、復員の手続きを開始した。これはアメリカを主体とした連合国の占領初期の主要任務「日本の非武装化」という大事業を天皇の手によってなされたことは、アメリカ政府とマッカーサーにとっては、この上ない喜びであったであろう。このことは天皇、日本政府からすれば、アメリカを始めとした連合国に対して「天皇の力」を有効にアピールする効果をもたらしたといえるであろう。しかし、国民の側から見たとき、これほどアジアと日本の国民を無視した天皇の行動はなかったであろう。武装解除は当たり前として、戦争を開始しその規模を拡大し、アジアの国々とその人民に、日本の国土と国民に与えた 破壊と甚大なる被害には目もくれずに自分と身内の保身に走った行為は、いかなる理由があろうとも許されないことである。

 9月2日にミズーリ号艦上で日本と連合国が降伏文書に調印した後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が横浜に進駐した。連合国軍最高司令官(SCAP)マッカーサー元帥(注1)がポツダム宣言執行の責任者として着任した。ここで注意しなくてはいけないのは「連合国」が占領を開始したのではなく、実質的にアメリカ政府とマッカーサーの単独占領(極東委員会の項参照)であったことである。しかしこのことは、日本の天皇制政府にとっては非常にありがたい「占領」であったといえる。天皇の地位安泰がほぼ確定したからである。とはいうものの、こういう状況を生んだのは、連合国がヨーロッパにおける戦後処理に時間をとられていたためで、連合国側はアメリカの単独占領を認めていたわけではなかった。事実、同年末12月16日〜27日にモスクワで開かれたモスクワ外相会議(アメリカ合衆国、ソビエト連邦、英国)で連合国の方針が占領に反映されるように制度化するための機関、『極東委員会と対日理事会』(注2)を設置することが決められた。アメリカ国論や連合国の中には「天皇を戦争犯罪人として処罰すべきだ」「天皇制は廃止すべきだ」という論調が強くあり、この委員会の設置が敗戦と同時に行われていたならば、現在の日本の姿は、まったく変わっていたものになっていただろう。マッカーサーはこの極東委員会の第一回会議(1946年2月26日)までに、急いで日本占領の基本路線(主に『天皇制を基礎とする国家と象徴天皇制新憲法の作成』)を作り上げることを急いだ。

 (注1)連合国軍最高司令官の記述については、連合≪国≫最高司令官と連合≪軍≫最高司令官という二通りの記述があるが≪国軍≫という記述にしている。

 (注2)極東委員会は別項にある。

 (参考)ただしその極東委員会も極東国際軍事裁判(東京裁判)の1ヶ月前の1946年4月3日第7回極東委員会の政策決定で、『マッカーサーが「天皇を戦犯とするいかなる措置をもとってはならない」』ということが決められ、その決定は4月23日にマッカーサーに指令している。(1949年1月14日に公表された)  このことは何を意味するのか、

 1)1946年にはアメリカ政府は、連合国の主張する「天皇は戦犯」という趨勢を無視してまで天皇を免責し、自国に利益をもたらそうとした。

 2)極東委員会もアメリカ政府の力に屈してしまった。それほどアメリカ政府は連合国に強い力を持っていたということである。

 3)アメリカ政府内には戦中戦後を通して親日派(天皇制を容認し、天皇を戦犯とみなさないと考えるグループ)と親中国派(天皇制を認めず、天皇に戦争責任があると考えるグループ)が存在し、そのどちらの側が主導権をとるのかによって、日本の占領政策が変化する状況であった。この時期(極東軍事裁判が開始されるという)には親日派が主導権をとっていたことになる。このことは、基本的にはマッカーサーが考えていた方針との関連はないが、それと同じ方向へと進んだことになる。とはいえマッカーサーは本国からの呼び出しに対して、それを拒否する行動をとっていることを考えると、必ずしもアメリカ政府の考え方はマッカーサーの意に沿うものではなかったと考えられる。

帰国命令1

 (参考)1945年9月17日(GHQが横浜税関から、第一生命ビルに正式に本拠地を決めた日)に出された「マッカーサー声明」(注3)が直接アメリカ政府に送られず、新聞記事によってそれを知ったトルーマン大統領は、マーシャル陸軍参謀総長を通してマッカーサーに帰国命令を出した。マッカーサーは、現状は帰国する状況にないとして帰国命令を拒否した。 同年10月19日にもトルーマンはマッカーサーに対して帰国命令を出している。これもマッカーサーは拒否している。この政府を無視した行動が1951年の朝鮮戦争におけるマッカーサー解任に繋がる伏線になっていると思われる。

 (注3)マッカーサー声明 この声明の内容は、占領にかかる軍の要員が、実勢40万人規模から20万人前後に削減できるというものである。

占領初期のマッカーサーの権限

1945年8月11日(バーンズ回答)

 1)降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。

大統領のための覚書(メモ)の「連合国軍最高司令官の権限」について1945年9月13日付

 1)天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国軍最高司令官としての貴官に従属する。貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本のとの関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からいかなる異論をも受け付けない。

 2)日本の管理は、日本政府を通じて行なわれるが、これは、このような措置が満足な成果を挙げる限度内においてである。このことは、必要があれば直接に行動する貴官の権利を妨げるものではない。貴官は、実力の行使を含む貴官が必要と認めるような措置を執ることによって、貴官の発した命令を強制することができる。

 3)ポツダム宣言に含まれている意向の声明は、完全に実行される。しかし、それは、われわれがその文書の結果として日本との契約的関係に拘束されていると、考えるからではない。それは、ポツダム宣言が、日本に関して、又極東における平和及び安全に関して、誠意を持って示されているわれわれの政策の一部をなすものであるから、尊重されかつ実行されるのである。 (国立国会図書館ホームページより)

 この文書につてのマッカーサーの要望は公表されることであった。国務省・陸・海軍協力委員会(SWNCC)はこれを承認した。さらに大統領の承認を得て、ソ連、イギリス、中華民国各政府に通知された。

 これを読んで分かることは、この時期のマッカーサーは「日本の統治」に全権限を持つ『全能の神』の存在であった。マッカーサーは自分の考えをもとにした政策(天皇の戦争責任の免責、天皇制の継続)を実施することに自信を持った。このマッカーサーの行動に対して連合軍各国から「マッカーサーの天皇の取り扱い方が生ぬるい」(武田相剋312ページ)という批判が上がり、極東委員会は1946年1月、日本に調査団を派遣した。

《対日占領政策(別項)》

天皇擁護のために動いた人々

マッカーサーと天皇につながる日本人
シドニー・マッシュバー  シドニー・マッシュバー(大佐)連合国軍翻訳通訳部部長(マニラ在任中)  マッカーサーはマッシュバーに「天皇が自分を訪問することを望んでいる(占領後に)」ことを話していた。マッシュバーは「我々が日本に到着したら、直ちにその線に沿った措置を講ずる所存であります」と答えている。 事実、彼は1945年9月2日には、日本の交渉窓口である鈴木公使(注4)との連絡役を指名されている。10日には鈴木公使に戦争犯罪人の取り扱いについて「戦犯については戦争の計画、準備、開始及び遂行の責任者、並びに戦争法規違反の現地責任者及び直接下手人が含まれる。」と伝えている。このことはGHQがまづ最初に処理したい(しなければならない)事柄は戦争犯罪人をどう処置するか、なかでも天皇の戦争責任をどう処理するのかということであったろう。マッカーサーは、このことについて日本に着任する前のマニラ在任中に、すでに一つの方向を決めていたと思われる。それは天皇の処遇についてであり、いかに天皇を戦争犯罪者という重い十字架から遠ざけ、日本を安泰に占領支配するのかということであった。その具体的な出来事を順を追って見てみたい。

(注4)鈴木九萬(ただかつ) 日本政府はマッカーサー来日の8月30日、マッカーサーから国体の護持に関する情報を収集するために横浜終戦連絡委員会(終連)を設置した。その終連の長。

東久邇宮内閣 1945年8月17日成立

幣原内閣    1945年10月9日成立 重光葵という人物 重光葵は1945年9月15日まで外相、同17日から吉田茂に。

 重光の天皇、政府、国民に対する考え方は、

◎天皇陛下も、責任がないということをご自分で語られることはすべきではない。

◎日本民族とは、自分の信念を持たず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか。

◎残念なことに、日本政府は傀儡政権になってしまった。
というものであり、マッカーサーと天皇とその取り巻き、政府にとって都合が悪い存在であつた。この時期このような考え方を公然と発言する人物は、皆無といってよいのではないか。マッカーサーを始めとして天皇を取り巻く日本政府は天皇の「これから」について心配こそすれ批判的言動をすることは「いわゆる”不敬”に値する行為」であったはずであるから。そこで吉田茂が登場するのである。
 9月20日 吉田茂外相と宮内省が天皇のマッカーサーとの会見を計画し、マッカーサーを訪問会見の打診をした。同日、藤田尚徳侍従長もマッカーサーを訪問。

帰国命令2
10月19日 2回目の帰国命令 「日本の管理に関する政策は、その大部分がワシントンよりも東京において形成されるべき」がマッカーサーの主張であった。

クルックホーンの天皇謁見

 マッカーサーは天皇との会見前の準備として、これを企画した。  フランク・クルックホーン(ニューヨーク・タイムズ特派員)は東久邇宮内閣の副総理の近衛文麿と会見し「アメリカ国民に四項目のメッセージを伝えることを天皇に持ちかけては?」と相談する。これは、アメリカ政府と国民(連合国政府と国民にも当てはまる)の中に根強く存在する天皇に対する戦争犯罪人という考え方を何とか和らげたいという思いから出た行動である。質問事項は事前に提出されていて、その回答は幣原喜重郎(注5)が英文に直したものを受け取る。その文書の基本事項は

1)民主主義(日本の一時的な非武装という意味での)と平和主義が、海外に向けた戦後の 天皇イメージの主要な構成要素であること。

2)天皇が真珠湾に関する質問を避けたい意向を持っていること。 というものであった。

 このことをもとに9月25日(マッカーサー会見二日前)にクルックホーンとヒュー・ベーリー(UP通信社社長 近衛文麿と旧知の間柄)は天皇に謁見した。

 会談の内容は

クルックホーン 「日本の将来について如何なるお考えをいだいておられるか」

天皇 「イギリスのような立憲君主制が良い」

クルックホーン 「宣戦の詔書が、アメリカの参戦をもたらした真珠湾への攻撃を開始するために、東条大将が使用した如くに使用される、というのは陛下のご意思でありま したか」

天皇 「宣戦の詔書を、東条大将が使用した如くに使用する意図はなかった」

 というものであった。  このことをニューヨーク・タイムズ紙は一面トップに掲載した。その内容を日本の新聞社は、同29日新聞に掲載する運びであったが、日本政府はそれを「日本国民に悪影響をもたらす」として差し押さえた。

(注5)幣原喜重郎 元外相=1921,1929年=東久邇宮内閣後の内閣総理大臣)

9月27日 天皇・マッカーサー会見(昭和天皇・マッカーサー会見=豊下楢彦)10ページから

 10月2日付の「ニューヨーク・タイムズ」は1日東京発のロイター電として、内務省のスポークスマンが明らかにした会談内容を以下のように伝えた。

 天皇はこの機会に当たり個人として、マッカーサーが「一件の事件」もなく占領を遂行したことに感謝の意を表明した。これに対してマッカーサーは、「円滑な占領は天皇のリーダーシップのおかげである」と答え、占領が「いかなる流血ももたらさなかった」ことについて心からの感謝を述べた。両者は、もし米軍の本土進攻が行なわれていたならば、双方の多大な人的損失と日本の完全な破壊がもたらされていたであろうという点で、意見が完全に一致した。天皇は、誰が戦争に責任を負うべきかについてマッカーサー元帥がなんら言及しなかったことに、とりわけ感動した。天皇は個人的な見解として、”最終的な判断は後世の歴史家に委ねざるを得ないであろうとの考えを表明した”が、マッカーサー元帥は”何ひとつ意見を述べなかった”。・・・さらにマッカーサーは、天皇が日本の再建に関して望む「どのような提案も歓迎する」と述べた。

このことに関して
 ボンベイ駐在のアメリカ総領事ドノバンが、バーンズ国務長官に「東京発ロイター電」内務省の説明に対する当地の新聞2日付「ボンベイ・タイムズ・オブ・インディア」紙の反響をつえた記事についての書簡を送っている。その内容は、「戦争責任に関する天皇発言」について、これではあたかも「天皇がマッカーサーよりも大きな力を持っているかのような印象を与えることは間違いない」と指摘し「このまま行けばまもなく日本人は、占領軍は天皇の『賓客』であるといった考えを広めようとするかもしれない」というものであつた。
(参考)当時の日本は、占領軍の検閲下にあり、GHQにとって都合の悪い情報がリークすることは考えられないので、これはマッカーサーの演出であると考えられる。このように、自分の身分を自ら貶めてまで、天皇の戦争責任を免責し天皇制を引き続き維持するための、マッカーサーの採った策略であると思う。これ以後マッカーサーは天皇を日本国民の前に積極的に晒すことによって、天皇の神秘性、この戦争での大元帥という権力の仮面をはぎ、温和で親しみやすい天皇、国民に君臨する天皇制ではなく、国民に親しみのある天皇制の定着を図ったのである。このことは天皇の考えとも一致していた。この後に記述する事柄を見れば、それは明らかである。

フェラーズメモ(覚書)10月2日

ボナー・フェラーズ(准将)(占領初期マッカーサーの秘書、元心理作戦部門指揮官、戦前来日経験あり)に繋がる日本人は

一色ゆり(旧姓渡辺)インディアナ州アーラム大学在学中からの知り合い。

河井道 恵泉女学園創立者、YWCAの元総幹事 二人ともクエーカー教徒である。 河井の知人である「関屋貞三郎」(宮内高官大正末期から宮廷と政府の省庁とのパイプ役として活躍)である。 この人たちによって、天皇をどのようにしたら戦争犯罪人から今までのように、国民の頂点に立つ「元首」たる天皇に仕立て上げることができるのかが協議された。

フェラーズメモ要点

「天皇は、そこに日本人の先祖の徳が宿る民族の象徴である。」 「天皇を戦争犯罪人として裁くことは不敬であるばかりではなく、精神の自由の否定である。」 「1941年12月8日の詔書は、当時の君主国の首長としてそれを発する法的権限を有していた天皇の免れ得ない責任であった。〈しかし〉最も高度の信頼しうる筋によれば、戦争は天皇自身から起こされたものものではない(注6)ということが立証されうる。天皇が直接語ったところによれば、彼には宣戦の詔書を東条が使用した如くに使用する意図はなかった。」  と述べ、最後に 「天皇が裁判にかけられるならば全国的蜂起は避けられず、何万人もの行政官を伴った大規模な派遣軍を必要とし、占領は長期化するであろう」と  指摘した。(注7)(この部分はマッカーサーのアイゼンハワーに対する回答と同じ内容である。)

(注6)(参考)大日本帝国憲法 第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定している。

(注7)天皇についての調査を参照

国運振興の詔書(いわゆる天皇の人間宣言)

 この詔書が作成された背景には、日本共産党の第4回大会後のその活動に負うところが大きいだろう。天皇制についての議論は、一般国民の中でにも浸透し、天皇制批判の声が新聞等に現れ始めていた。(天皇の昭和史 115ページ)12月6日には木戸と近衛という天皇側近にまで逮捕命令が出る状況になり天皇を取り巻く支配層は、天皇免責の措置をとらざるを得ない状況に陥っていた。宮内庁は、学習院のレジカド・ブライスとGHQのハロルド・ヘンダーソンの二人に原本を作りを依頼した。(Wiki)という考え方がある一方で、  詔書はまずGHQによって起草され、幣原内閣と宮廷で翻訳、修正を得て作成された。(昭和天皇 下180ページ)という考え方もあり、この方が自然だと思う。1945年末にかけて、マッカーサーが採ってきた天皇に対する政策を見るならば、このことは、マッカーサーの指示によるものと解釈される。  マッカーサーとしては、なんとしても占領を進める上でのパートナーとして天皇をとどめておかなければならないと考えていたのである。そのために、この”人間宣言”を発表させ、日本国民の中に彼を定着させることにしたのである。

(参考)シカゴ・ディリー・トリビューン紙 1946年1月に掲載されたマッカーサー声明  「私は天皇の年頭声明に大いに満足している。それによって、国民による民主化に指導的役割を担いつつある。彼は未来に向かって営々と自由主義路線に沿った立場をとっている。彼の行動は、健全な思想がもつ抗し難い力を反映している。健全な思想は、これはとどめることはできない。」

天皇行幸

 日本政府が天皇行幸(別項)という政治的一大イベントを1952年までに全国的に打ったことは、天皇の神性を『人間宣言で』取り除き、国民の中に今までにない親しみやすい『天皇』を作り出すために大いに役立ったと考えられる。  多くの国民の心の中には、まだ、『現人神=天皇』が色濃く残存するも、天皇を国民に近づける効果は大きかったのではないだろうか。現在のように、天皇=及び、それを取り巻くあらゆることが即時にその機会がある事に、テレビ、新聞、ウエブサイトのメディアが宣伝することができなかった時代では、この行幸が最大強力な宣伝武器であったと思う。

 マッカーサーによる憲法での天皇(制)の擁護

 憲法改正は1945年10月4日、マッカーサーが東久邇宮内閣の副総理の近衛(国務相)に憲法改正(改革)(別項)を示唆したことから動き出した。

天皇についての調査

   1945年10(11)月末に、トルーマン大統領の調査指令「天皇の戦争責任の有無の調査」が出される。これは、トルーマン大統領が10月8日の記者会意見で、「日本人民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのはいいことだと思う」とのべ、GHQ法務局長カーペンターは同21日、「もし確証がある場合は、天皇を戦争犯罪人として審問することに不都合はない」と語った、ことによる。  1946年1月25日 マッカーサーはアイゼンハワー参謀長に機密電報を打った。(相剋297ページ)(天皇の昭和史123ページ))

マッカーサーが、アメリカ陸軍参謀総長ドワイト・D・アイゼンハワーに送った文書。

 過去10年間に、程度はさまざまであるにせよ、(天皇が)日本帝国の政治上の諸決定に関与した事を示す同人の正確な行動については、明白確実な証拠は何も発見されていない。可能な限り徹底的に調査を行なった結果、終戦時までの天皇の国事への関わり方は、大部分が受動的なものであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったという、確かな印象を得ている。  ・・・・・  天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を引き起こし、その影響はどれほど過大視してもしすぎることはなかろう。天皇は、日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば、日本は瓦解するであろう。・・・最小限に見ても、おそらく100万の軍隊が必要となり、無期限にそれを維持しなければならないであろう。 と、トルーマン大統領を脅した。

 これまでマッカーサー、もしくは彼のスタッフが天皇の戦争犯罪の容疑について調査したことを示すアメリカの文書は発見されていない。(昭和天皇 下 185ページ)

  以上のように、マッカーサーは天皇を擁護し、日本占領を自分の望みどおりに推し進めた。この5年間に日本はアメリカの従属国化を築き上げ、現在に至っている。

追記

《マッカーサー元帥のための覚書》
(1947年9月20日)  (マッカーサー司令部顧問 シーボルト)

 天皇の顧問、寺崎英成(注)氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、日時をあらかじめ約束した上で訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略) さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている。

(注)寺崎英成  外交官。1941年アメリカ(ワシントン)の日本大使館で、日米開戦回避工作を行った。戦後は宮内省御用掛(通訳)。昭和天皇とマッカーサー会見の通訳をつとめた。

《アメリカとの防衛分担金交渉(米軍削減)について》

 1955年8月29〜31日アメリカにて行われた。交渉団員 重光(葵)外務大臣・副総理、岸(信介)民主党幹事長、河野(一郎)農林大臣。 この交渉に入る前の8月20日、重光は天皇に内奏する。このとき天皇は重光に「駐屯軍(在日米軍)の撤回は不可である。」と、命じた。
文字強調は筆者による
「戦後史の正体 孫崎享著 創元社」から

《戦争と原爆についての、天皇記者会見》

1975年10月31日 訪米から帰国した際に行われた日本記者クラブ主催の記者会見で、記者の質問に答えた。

「問い」 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)

「天皇」 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。

「問い」戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか?

「天皇」 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
Wikipediaより

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