メディアのレッド・パージ

メディアのレッド・パージ

新聞の場合

 連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の、昭和25年(1950年)6月6日、7日、26日、7月18日の指令並びに書簡は、日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者は言論機関から排除することが、自由にして民主主義的な新聞の義務であることを指示したものである。これを受けて各新聞社は、このたび関係筋の重なる示唆もあったので、わが社もこの際、共産主義者並びこれに同調した分子を解雇することに方針を決め、本日、先の諸君に退社を命じた。今回の措置は、一切の国内法規、あるいは労働協約等に優先するものであることを社員諸君はよく了承のうえ、平静に社務に精励されんことを望むものであります。

 レッド・パージ指令を受けた社は、読売、朝日、毎日、共同、日経、東京、時事通信、放送協会の8社で336名を解雇した。その後全国の地方紙にも同様の措置があって、50社704名が解雇された。

 7月24日GHQ民生局公職審査課長ジャック・ネピア少佐が、東京8社の責任者と地方紙を代表する資格で新聞協会代表を個別に招いて、口頭 次の伝達をした。 「マッカーサー元帥が『アカハタ』に関して三度にわたって出した指令に基づいて、社内の明白な党員及びシンパを全部追い出せ。これは司令部の命令ではないから、経営者各自の責任において遂行されたい。しかし司令部は背後から支援するし国警や労働委員会などにも、指示してあるから安心して施行せよ。」この指令を拒否した新聞社代表はいなかった。 こうして50社704名の共産党員とその同調者はパージされた。

104名を追放した朝日新聞を例にとると、その解雇理由は次のようであった。

 「マッカーサー元帥は『アカハタ』の無期限停刊を指令するとともに、今日のごとく自由世界の諸軍隊が国際的共産勢力の暴力に対してたたかっている状況下においては、報道機関は自由のための闘争において最も重大な責任を課せられている点を強調した7月18日付吉田首相に対する書簡によって、一般の報道機関に対しても、その組織から一切の共産党員とその支持者を排除すべきことを示された。
 よってわが社としては貴下に対し、本社従業員就業規則第45条第6号規定により7月28日付をもって退社の措置をとることと致しました。」  この就業規則は「やむを得ざる社務の都合によるときは、社員を退社」させることができるというものであった。

 この解雇問題は国会で取り上げられ、社会党、共産党の議員が政府に質問したが、法務総裁は「新聞報道機関の共産主義者とその同調者解雇の処置は適切で、正当の理由があるものと考える。政府はこの処置に全幅的に賛成を表すると同時に極力これを支持する。」と答えた。 GHQ CIEのニュージェント中佐も8月3日に声明を出し、政府方針を支持した。この後、レッド・パージは、公務員、国鉄、私鉄、教育、全国の労働組合に広がってゆく。 こうして現在の日本社会の共産党(共産主義)排除の風潮が、このときから作られてきたのである。新聞をはじめとするメディアの社会的責任は大きい。

NHKの場合

 NHKは当時GHQのCIE(民間情報教育局)が直接管理していたので、レッド・パージは占領軍の直接命令のかたちでおこなわれた。7月28日大阪中央放送局では、日本語と英語の掲示が張り出された。 「連合国軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥の命により、先共産主義者並びにこれに同調せるものは、当建物及び施設内に入るを得ず。」  東京のNHK放送会館では、会長名の命令書が掲示された。

 NHK労働組合は1946年10月には、賃上げ、団体交渉権の確立などの要求でストライキをおこなっている。(このとき新聞関係労働組合も闘争に参加していたが、脱落してNHKのみとなる)。このように当時としては、先進的な労働組合であったが、1949年春に組合は分裂し、第一組合から第二組合への脱落組合員が多数出た。8,000人の組合員が119名の少数組合になり、1950年8月5日までに、その全員がパージされた。 メーデー歌の指導放送もしていた労働組合も、GHQ,政府の進める反共労働攻勢には太刀打ちできなかった。

(注)塩田庄兵衛、平田哲男から引用
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