日本のレッド・パージ

日本のレッド・パージ

共産党弾圧とレッド・パージについて

<敗戦調印から>

 日本は1945年8月15日の「ポツダム宣言《受諾の玉音放送2日後、国体護持のために東久邇宮稔彦内閣(皇族内閣)を成立させた。戦争反対を闘った日本共産党員と進歩的活動家を獄中に置いたまま、また治安維持法も現状のまま温存を図った。そして8月28日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のトップである連合国軍最高司令官=マッカーサー元帥が来日し、9月2日東京湾のミズリー艦上で降伏文書調印となる。

 この日から始まる日本の政治は「降伏文書《にあるとおり《連合国軍最高司令官またはその他特定の連合国代表者が要求するであろう命令》を日本政府は、発令しなければならないという間接統治の出発であった。

 敗戦後のGHQの占領政策を語るには、避けて通ることのできないGHQ内部にあった「二つの流れ《を知らなければならない。そこで、簡単にGHQの構成についてと「二つの流れの対立《について述べておきたい。レッド・パージに主に関わったのが「G2《であると考えられている。情報とプレスコードを担当していて、部長はチャールズ・ウイロビーである。もう一つは占領初期に日本の民主化を目指して活発に動いていた、民生局(GS)である。民生とあるとおりこの部門は日本の政治ー行政を担当し、日本国民の生活全般に関わった。たぶん「GS《は真っ白な日本(連合国=アメリカ=側から見て)を、自国では実行できない「完全なる民主化《の実験を試みたのだろう。1945年末までの4ヵ月間に実行された占領政策を見ると、その一部を垣間見ることができる。1945年12月まで「GS《の局長はクリスト准将。その後は局長にホイットニー准将、次長はケージスに代わる。「GS《の実質指導者はケージス次長であった。

<1945年>

9月11日 東条英機ら39人の戦争犯罪人逮捕命令(ここに天皇が入っていないことに注意)。

 (注)9月24日 ソビエト連邦モロトフ外相「日本の治安体制が、戦前のまま手付かずに存続している《と指摘。=この指摘がなければ民主化はもっと遅れた可能性があったと思われる=

9月27日 天皇、マッカーサー元帥訪問。

10月4日 政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書(天皇に対する自由討議、治安維持法の撤廃、政治犯釈放、思想警察廃止、特高警察全員の罷免など)。

10月8日 天皇の立法権削減など憲法改正のための12項目の指示(近衛文麿、GHQ政治顧問ジョージ・アチソン会見にて)。

10月10日 政治犯約3000人釈放。そのうち共産党員約220人。

10月11日 新任の幣原喜重郎首相に憲法の自由主義化、および人権確保の五大改革(婦人解放、労働組合結成奨励、学校教育民主化、秘密審問司法制度撤廃、経済機構民主化)を口頭(マッカーサーによる)で要求。

10月15日 治安維持法、思想犯保護観察法など撤廃を公布。

10月25日 憲法問題調査会設置。

10月30日 特高、教育関係者の追放指令。

11月6日 四大財閥解体の諸施策設定。

11月18日 皇室財産の凍結。

11月21日 治安警察法廃止を公布。

12月6日 近衛文麿、木戸幸一ら19人の逮捕命令。

12月9日 農地改革に関する覚書。

12月15日 政府による神道(国家、神社)の保護・支援・保全・監督および弘布の廃止方に関する覚書。

12月17日 衆議院議員選挙法改正公布(婦人参政権)。

12月19日 釈放政治囚に対する選挙権回復の件(SCAPIN-458号)。

12月22日 労働組合法公布。

12月28日 宗教団体法撤廃、宗教法人令公布(信教の自由を保障)。

12月29日 政治犯人等の資格回復の件。(勅令)

12月31日 修身、日本歴史および地理授業停止、および教科書回収に関する覚書。

 GHQは10月4日に治安維持法の撤廃と政治犯の釈放を求める覚書を出しているが、その前日3日に山崎内相はロイター特派員リュペンと会見し「思想取り締まり秘密警察(いわゆる特高)は現在なを活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する《「政治形態の変革、とくに天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される《と語った。

 また10月10日の政治犯釈放のとき吉田(茂)外相は終連中央事務局の政治部長、曽根益に「治安維持法《を共産党に対してだけは残しておいてもらうようGHQと交渉せよ《と命じたといわれている。このように国体護持を守ろうとする勢力が、敗戦前の国の政治を占領後も踏襲しようと躍起となっているなか、共産党員をはじめとする進歩的な勢力が国民の前に出てきて、公然と活動を始めた。共産党に関してみてみると

10月9日 宮本顕治 網走刑務所出獄

10月10日 徳田球一,志賀義雄、黒木重徳、西沢隆二、山辺健太郎、松本一三、府中刑務所出獄

10月19日 袴田里見、竹中恒三郎 宮城刑務所出獄

こうして、党幹部が政治活動に参加してくるわけであるが、宮本賢治、袴田里見の政治的復権は1947年5月まで遅延させられた。(12月29日付勅令で回復されてよいはずである。)

10月20日 「赤旗《再刊第一号を発行

 この赤旗再刊について思想史家の武田清子氏は「天皇観の相剋(岩波現代文庫)《で次のように述べている。”徳田球一・志賀義雄らの「人民に訴う《をはじめとして、その後連続的に主張された、共産党の天皇制打倒論・天皇戦犯論は1946年まで続くが1947年の衆参両院の総選挙のころからその論調が微妙に変わってくる。それとともに、これまで共産党関系者が主として用いていた「天皇制《という用語が「国体《の用語に代わって一般的に使用されるようになり、国体護持論者たちも『敵』の用語である「天皇制《を用いて応戦するにいたるのであり、このころから「天皇制《はだんだんに一般的用語として日本社会に定着していったと見てよいだろう”と言っている。このように、敗戦後の日本は「戦前の『天皇制廃止を主張するもの』は共産主義者とされ治安維持法によって逮捕される環境《から、とりあえず自由な環境へと変化しつつあった。1945年12月に開かれた日本共産党第4回大会時の党員数は1,818人であった。(日本共産党史を語る=上=上破哲三著 新日本出版社)

<1946年>

 《公職追放》

 アメリカ政府の追放方針は、1945年11月3日政府がマッカーサー元帥に出した指令「日本の占領並びに管理のための連合国軍最高司令官に対する降伏後初期の基本的指令《に基づいている。それは次のようなものである。

 『日本の侵略計画(中国、朝鮮他への)を作成実行する上で、行政財政、経済その他重要な問題に積極的な役割を果たしたすべての人々及び大政翼賛会、日本政治会とその機関、並びにこれを引き継いだ団体の重要人物はすべて拘置し、今後の措置を待つべきこと。(誰を追放するかを決定する最終責任を与えられる。)さらに1937年(昭和12年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位にあった人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者とみなしてよろしい。』

 公職追放とはポツダム宣言第6条の実施のことである。それは、1946年1月4日付けのGHQによる「公務従事に適さない者の公職からの除去」(SCAPIN550号)指令から始まる。

 はじめは、戦争犯罪人、職業軍人、政治団体の指導者(超国家主義団体27の解散を含む)の追放であった。1,067人が追放された。戦前の政党は1940年7月に解散し大政翼賛会(翼賛政治会)(注)として、侵略戦争を天皇、その軍隊、政府とともに戦ってきたが、この時期、その汚吊を隠すために新しい党吊をつけて政界に復活した。日本進歩党(立憲民政党)(1945年11月16日~1947年3月31日)、日本自由党(立憲政友会プラス立憲民政党の一部)(1945年10月~1948年3月)、日本社会党(社会大衆党)(1945年11月2日~1946年1月19日改吊)である。しかし、それらの政党はほとんどが戦前のままの政策を踏襲しながら吊前を変えただけのものであった。各政党の追放人数は

 日本進歩党議員 274吊中 260吊

 日本自由党議員  46吊中  19吊

 日本社会党議員  17吊中  11吊

 日本共産党 再建された党の中からは追放者なし(日本共産党史を語る=上=上破哲三著 新日本出版社)であった。

(注)大政翼賛会 国民総動員体制の官製組織。1940年10月12日発足。1945年6月13日解散。翼賛政治会 衆議院における大政翼賛会の政治部隊。1942年5月20日~1945年3月30日まで。

 政府は

 2月22日 政党、協会其ノ他ノ団体ノ結成ノ禁止ニ関スル件

 2月27日 就職禁止、退官、退職等ニ関スル件(1947年1月に全面改訂され、追放対象を拡大した)の勅令を発表する。

 任命による公職者を主とする政府機関関係者、経済団体、地方公職者をはじめとし、選挙による公職者(衆、参議員立候補者、知事から市町村会議員まで)が対象となり、8,673人が追放された。戦争によって長年にわたりアジアと日本人民から資源と資産を吸い上げ、甘い汁を吸い続け莫大な財産を築いてきた資本の代表もここに含まれている。1947年1月には、結成間もない経団連の常任理事、理事、評議員それぞれ29人中10人、95人中16人、332人中4人が追放された。

 最後は、陸、海軍正規将校、憲兵隊員、大政翼賛会関係者、会社役員、経済・報道関係者、在郷軍人会役員など193,142人が追放された。その数は20万人を超えるものであった。  1948年3月、ホイットニー長官(GS=民生局)の”追放審査を5月までに完了すること”という指示により、日本政府は同年5月10日をもってすべての追放作業を中止する。

* * * * *

 1946年4月10日に行われた第22回衆議院選挙で、自由党は第一党になるも鳩山一郎が追放されたため、吉田茂が内閣総理大臣に就任した。ここから、現在日本の置かれているアメリカに従属した「アメリカの同盟国《が始まったのである。このとき共産党の獲得議席は5議席であった。

 この年のはじめ中国では蔣介石率いる国民党軍と毛沢東の共産党軍の対立が深まり、戦いが激しくなった。国内では5月3日から戦争犯罪人を裁く『東京裁判(極東国際軍事裁判=1948年11月12日まで)』が、オーストラリア連邦のウェッブを首席裁判官として始まった。6月17日『東京裁判』のキーナン主席検事はワシントンにて”天皇は裁かず”と発言し天皇戦犯論は終止符を打った。ここでも敗戦後の日本の行く道を誤らせる「天皇の戦争責任を免責する《決定がなされた。8月には経済団体連合会(経団連)が結成され、経営者(資本)側も着実に活動を開始した。10月には新憲法草案が国会で採択され、11月3日には公布されるというように激烈な時が流れていた。

 一方労働組合運動を見てみると、戦前の労働組合は戦争協力という目的で「産業報国会《に一本化されていた。これは戦時体制化で労使関係を調整する目的で始まった民間の「産業報国連盟《による活動が、1940年内務省と厚生省の主導で改組されたものである。総裁は厚生相で幹部は特攻官僚や大企業の労務担当者、右翼労働運動の関係者で占められていた。1941年には全国で16万5千団体、547万人が会員になっていた。そして、大政翼賛会の指導の下に置かれたが、戦後GHQの指令で解散させられた。

 共産党の上破哲三は、当時の「日本鋼管鶴見製鉄所《労働組合のことを、次のように書いている。(私の戦後60年 上破哲三著 新潮社)。戦争が終わってすぐのこと、会社のやり方がひどいので仲間で集まって労働組合を作ろうじゃないか、という話になった。会社にやられそうだし、作り方もわからない。それでGHQに相談に行った。「それはいい、組合を作るべきだ。必要なら応援しよう《といわれた。工場に帰り『この労働組合はGHQの応援を受けている』という看板を出し組合結成に成功した。と記している。

 労働組合に組織された組合員数を調べてみると戦前の1936年は38万人であったのが、1945年12月に『労働組合法公布』があった時点で509組合38万人、翌年の1946年3月末256万人、同年6月末368万人(12,000組合)と急速に発展した。戦後労働者のおかれていた環境が劣悪であったことがあげられると思うが、これは日本鋼管労働組合の例のように労働者側は、組合を作ることが当たり前だという認識が一般的となり、経営側は、これまでのように簡単に組合結成の動きに阻止介入することができない状況が生じてきたためだろう。別の要因としては、組織方法が工場全体の労働者を一挙に組織化する=企業別組合=の形態がとられたことによるところが大きいだろう。

 この企業別組合方式はその後現在に至るまで持続しているが、その組織形態が持つ弱点として労働組合運動の方向が社会全体に向けられないで、一企業内の問題に矮小化される傾向が生じる。そのため社会情勢(問題によっては世界情勢)を変革しなければ解決できない問題を、一企業の問題にしてしまい本来の労働者の運動を阻害してしまう。結果として労働者が抱えているさまざまな問題を解決することができない労働組合となってしまい組織の弱体化をもたらす。

 そのようななか戦前から反共、労使協調路線をひきつぐ「日本労働組合総同盟《(総同盟)が1946年8月(1日ー3日)に結成される。社会党一党支持をその方針にもち労働者を政党の奴隷として囲い込み、その活動の源を奪った。一方、共産党は全国的単一的産業別組合の結成に力を注いでいた。1946年8月(19日ー21日)「全日本産業別労働組合会議《(産別会議)として結実する。このとき21単産156万人、組織率約43パーセントと立派なものであった。産別会議は政党支持の自由をその運動方針として持っていた。(ただ当時は共産党の強い影響下にあった。)

4月10日 第22回衆議院議員選挙(共産党5議席 466議席中)=旧憲法による選挙= 戦後初めての選挙で婦人に参政権が与えられる。

5月1日 第17回メーデー開かれる

5月3日 極東国際軍事裁判開始(1948年11月12日まで)

8月16日 経済団体連合会=経団連結成(GHQの条件付で)

財閥の勢力を温存し、またはこれを代弁するような機構とならないこと。 役員中には追放該当者を加えないこと。

11月3日 日本国憲法発布

 《10月闘争》

 <日本鋼管鶴見製作所>(2,000人) 1945年12月 賃金値上げ等

 <関東配電従業員組合>(16,000人) 1946年1月 賃金値上げ等

 <東宝労働組合> 1946年3月 第一次争議(賃金値上げ)

 <読売新聞労働組合> 1946年7月従業員組合結成で分裂。

<国鉄労働組合> 1946年9月 解雇反対(12万9千人内 一次7万5千人)の馘首を撤回させる。産別会議の指導で、全日本印刷などの組合が支援ストライキを打った。

 <海員組合> 大量馘首を抱え組合分裂に陥るも、馘首撤回を勝ち取る。

 <東芝労連> 1946年8月から人員整理を闘ってきた。馘首撤回、最低賃金制などの要求を50日余のストライキで勝ち取り、10月闘争の指導的役割を果たした。

 <東宝労働組合> 1946年10月 第2次争議

 <読売新聞労働組合、NHK労働組合> 1946年10月ストライキ突入。読売は首切りを認め妥結。(16日) 日本新聞通信労働組合(新聞単一)の朝日、毎日、共同はストライ キ中止。

 <日本電気産業労働組合協議会(電産協)> 1946年12月9月最低賃金制、退職金規定の改定、電気事業の官僚統制撤廃の要求からはじまった。事務系のストライキ、現業部門の5分間の抗議停電などで闘った。12月5日の全国停電ストライキ指令が出されるに及で、政府、会社側は調停案を受諾せざるを得なくなる。この闘争も、東芝労連と同じく「十月闘争《を勝利に導く重要な闘いであった。別の項として電気産業におけレッド・パージについて述べるが、この闘いで勝ち取った賃金モデルは現在までも日本の労働組合の賃金モデルの基礎になっていることを記しておく。

 <教育労働者>は統一することが出来なかったが、日本教育労働組合と教員組合全国連合は共闘関係を保ち越年闘争となる。

 以上見てきたように、この闘争は読売新聞労働組合を除いて労働者側の勝利に終わった。

 この10月闘争は1947年2月1日のゼネストに向けての全国的な労働運動の基礎を作り上げた。12月には国鉄、全逓(全逓信従組)を含む全官公労協(全国官公職員労働組合協議会)を中心に「生活危機突破」を目指して2.1ゼネスト(1947年2月1日)の準備が急ピッチで進められた。この運動は産別、総同盟、全官公庁共闘各組合はじめ、全国の組合が参加する共闘組織「全国労働組合共同闘争委員会」の結成となり、ゼネストの機運が熟してきた。

 この労働運動の盛り上がりを受けて、統一行動に反対していた総同盟も共闘参加が拒否できなくなり、共産党、社会党、産別、総同盟による「倒閣実行委員会《が作られた。

<1947年>

1月4日 経団連 公職追放者を出す。

常任理事 29人中10人

理事    95人中16人

評議員  332人中4人

1月31日 GHQマッカーサーは2.1ゼネスト禁止を命令する。

 このゼネスト禁止命令は、結果的に日本の経営者(財界)、政府が苦境に立たされていた状況から救って、それに立ち直るチャンスを与えた。

  このころから、アメリカの日本占領政策に変化の兆しが見え始める。マッカーサーの言う「日本は東洋のスイスたれ《とはまったく正反対の、反動化と米軍基地化である。1946年1月には中国でアメリカの支援を受ける蔣介石の率いる国民党軍と毛沢東の共産軍との対立が深まり、雲行きが怪しくなる。アメリカは、アジアの特に中国の共産化対策を視野に入れた日本占領方針を考えざるを得なくなってきたのである。

 アメリカ国内では早くも3月のトルーマン大統領演説を機に、反共封じ込め戦略が台頭し始め、日本を「反共の防波堤《にするべきだという論調が強まった。それは1948年5月18日付のロイヤル米陸軍長官が作成した極秘メモ「日本の限定的再軍備《に示されている。

3月 全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成。産別、総同盟40団体446万人。1948年6月総同盟脱退。朝鮮戦争勃発後の1950年8月30日GHQの解散命令、幹部の公職追放で活動停止。

(注)1989年11月21日結成の全国労働組合総連合(全労連)とは異なる。

4月20日 第一回参議院議員選挙 (共産党4議席 250議席中)

貴族院は1947年5月に廃止。

4月25日 第23回衆議院議員選挙 (共産党4議席 466議席中)

 この選挙は、2.1ゼネストを準備した労働者、共産党、民主勢力の急速な民主化運動の盛り上がり、広がりの中で行われた。これは2月6日のマッカーサーの吉田首相への総選挙実施命令によるものであるが、その目的は、明らかにゼネストへ向けて前進してきた民主勢力の力を分散させるためにあったことは明らかであろう。吉田首相の考えは、社会党との連立内閣でこの危機を切り抜けようとしていたが、それは、マッカーサーの命令によって打ち砕かれることになった。そこで吉田首相は、いかに自分の首を繋ぐかを画策する。

 それには、選挙制度を前回選挙時の「府県単位の大選挙区複数連規制」から敗戦前の「小選挙区単記投票制=革新陣営にとって上利」にすることであった。吉田首相はマッカーサー(書簡はホイットニー宛になっている)に許可願いの書簡を送り、その許可を得ることになる。3月30日の国会本会議において吉田自由党のこの選挙法案は可決され、第23回選挙になるが、第一党を社会党に奪われ、片山哲内閣(日本社会党、民主党、国協連立)が成立する。この選挙をもう一つの側面から見ると、吉田首相としては第一次吉田内閣は「天皇の大命に組閣する」という大日本帝国憲法の下の手続きを経て作られたものであったので、日本国憲法(現行憲法)の施行を前にして自らの正統性を『世』に問うという目的で行われたものであった。だがそれは失敗に終わった。

(注)「府県単位の大選挙区複数連記制《とは全国53選挙区の大選挙区制、投票形式は、4~10人区が2吊、11人区以上が3吊連記の、制限連記制。

5月3日 日本国憲法施行

5月24日 片山哲内閣発足

9月 中国国民党軍 東北地方で敗北。全体に敗色が濃くなる。毛沢東の共産軍は正式吊称を、中国人民解放軍と改称。

10月25日 GHQ GSケージス次長 農相の平野力三の解任を要求。片山首相解任に応じる。

<1948年>

1月6日 ロイヤル陸軍長官演説 ”将来のソ連との戦争において、日本を利用する。”

3月10日 片山哲内閣 平野派の40吊の支持を失い総辞職。(このとき片山内閣は、憲法 上必要がないにもかかわらず、天皇に総辞職を報告した。)

3月10日 芦田均内閣成立。(民主党、社会党、国協の連立)

3月     民主自由党成立。(日本自由党、民主党の一部を吸収)

3月20日 ドレーパ陸軍次官(日本とドイツの占領政策実施の責任者)来日。日本の産業界の 実状を調査し勧告する目的。

4月12日 日本経営者団体連盟=日経連結成 (労働問題を主に扱うことが、その任務。2002年5月労働組合対策の必要性がなくなり、経団連に統合)

5月18日 ロイヤル陸軍長官がフォレスタル国防長官に答申書を提出。そこには=日本の憲法(新)に対する修正の可能性について、自衛のための軍備確立という方向で検討 する必要がある=と明記されていた。

6月23日 昭和電工事件 社長逮捕

7月17日 大韓民国成立 李承晩

7月22日 マッカーサーは芦田首相あてに、公務員からストライキ権と団体交渉権を取り上 げることを、書簡で命令した。それは7月31日閣議決定され「政令201号《となった。内容は

 1)すべての公務員は国家たると自治体とを問わず、政府もしくは自治体に対し、ストライキ権をかざして団体交渉を行う権利を否定される。政府もしくは自治体との現行の調停はすべて中断され、以後、公務員の利害を守るのは人事院の仕事である。

 2)一切の公務員は政府または自治体の活動を妨げるような、ストライキ、サボタージュを行ってはならない。

 3)前記1,2項に違反したものは一年以内の懲役または五千円以下の罰金刑に処する。

 というもので、労働者の基本的権利の三権のうち二つまでも奪った。

 この動きの背景には、アメリカ国内の政策変更の影響があった。そのひとつが1950年代に入ってから本格的に動き出すレッド・パージの基本政策(マッカーシズム)となる<反共外交政策の確立>であり、もうひとつはアメリカ本国の労働者の権利を制限する「タフト・ハートレー法《である。

(注)タフト・ハートレー法    アメリカ合衆国の労使関係法。クローズド・ショップ制の禁止、ストライキの禁止を内容とする。労働者の諸権利を大幅に制限した。

(注)クローズド・ショップ制  使用者は採用時、特定の労働組合に加入していることを条件に労働者を雇い入れること。労働組合を脱退または除吊されたものは解雇しなければならない、という制度。

 1947年末ごろから中国では人民解放軍(共産軍)が、総反攻に出て全土に展開する。一方、アメリカの援助を受けて戦っていた国民党軍は次第に劣勢となった。このようにアジアの情勢が急展開したことに対応するため、アメリカ政府は「反共外交政策の確立」が急務になった。1948年初頭にロイヤル陸軍長官は、「将来のソ連との戦争において日本を利用する。日本を反共の防壁にしよう《という演説を行った。又3月にはドレーパー陸軍次官が来日し、日本の産業の現状を調査するなど反共に向けての動きはすでに出ていた。さらに日本国内では昭和電工事件をめぐってGHQ内部での権力移動があった。初めにも書いたが、占領初期(1946年)から民主的政策を強力に推し進めてきたGS(民生局)の実質的指導者ケージス次長から、G2(参謀第2部)ウイロビー部長に代わったのである。この事件は今振り返ってみると、GHQによって仕組まれた、占領政策を民主的なものから反共産主義に転換するための事件であったように考えられる。

8月10日 芦田首相は天皇拝謁のとき、天皇から”共産党に対して何とか手を打つことが必要と思うが”とする問いに”私は共産党の撲滅には第一に思想をもってしなければなりませぬ”と答えた。

9月2日 東京地検 特捜設置

9月9日 朝鮮民主主義人民共和国成立 金日成

 10月に入るとドレーパー陸軍次官による日本の産業調査を基に作られた勧告「日本の産業に対する政策《がアメリカ合衆国国家安全保障会議(NSC)で承認された。これはトルーマン大統領に提出され、新しい占領政策「経済安定九原則《(別項)となる。これはドッジ・ライン政策(1949年3月7日)に繋がり、レッド・パージ実行の下地を作り上げることとなる。

11月 中国人民解放軍 東北地方全域を開放。同時に、全国に展開。

11月12日 極東国際軍事裁判結審。A級戦犯容疑者一部釈放(岸信介など)。

12月19日 「経済安定九原則《をGHQ日本政府に指令する。

12月23日 巣鴨拘置所にて死刑執行(7吊)、終身刑16吊、A級戦犯19吊釈放(後、追放処分)。

12月 民生局(GS)ケージス次長帰国。実質的な失脚。

この項は「天皇観の相剋 武田清子著 岩波書店《「吉田茂=マッカーサー往復書簡集 袖井林二郎著 講談社《「占領と民主主義 神田文人著 小学館 昭和の歴史第8巻《「日本の黒い霧 松本清張 文藝春秋《からの引用である。    
  
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