ソ連に頼る終戦工作

ソ連に頼る終戦工作の事実 「太平洋戦争終結の六ヶ月」
             日本はこうして無条件降伏した

 日本が太平洋戦争に負け、連合国との間で降伏文書に調印した年1945年(昭和20年)の初め1月頃には、すでに日本の天皇、軍部、政府はこれ以上の戦争遂行は難しく戦争終結を模索する動きが存在していた。まだそれは水面下のことで、天皇を動かしうる存在は弟宮(三笠宮崇仁)と近衛文麿など一部の重臣のみであった。

1945年

 2月 近衛文麿元首相は天皇に『敗戦は遺憾ながらもはや必至なり。最も憂うべきは敗戦よりも敗戦に伴いて起こることあるべき共産革命に御座候』進言。(終戦史録ー外務省編纂)

2月4日〜11日 <連合国> 「ヤルタ会談」アメリカ=ルーズベルト、イギリス=チャーチル、ソ連=スターリン  この会談の目的は国際連合とドイツに対する作戦のためのものであった。同時にソ連の対日参戦の時期と日露戦争で失われた旧ロシアの領土権の回復が決定された。ソ連は日本と「日ソ中立条約」(注)を結んでいたが、これは対ドイツ戦に有効であったが、この時期には実質その効力は失われていた。

(注)<日ソ中立条約>日ソ両国が第三国と戦争になった場合、中立を守るとした条約。1941年4月13日、松岡洋右外相とソ連のモロトフ外相がモスクワで調印。有効期間は5年。日本にとっては北方の脅威低減で南進政策に力を注ぐことができ、ソ連にとっては独ソ戦と日ソ戦の二正面作戦を回避できる利点があった。この41年7月2日の「御前会議」は独ソ開戦を受け、「情勢の推移に伴う帝国国 策要綱」を決定した。海軍が主張する南進と、陸軍が唱えてきた対ソ戦準備とのニ正面作戦を盛り込んだ。陸軍は同月に「関東軍特殊演習」を行ったがドイツの戦況を考えて対ソ攻撃を中止する。一方海軍の主張する南進が実行され 、北部仏印に進駐していた軍隊を南部仏印へと侵攻させた。この作戦の狙いは 、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)に眠る豊富な石油資源の獲得にあった。このことが、真珠湾奇襲攻撃の原因を作ることになった。

3月 日本軍情報部は、ソ連が満州の国境に軍備の増強を始めているとの情報を、政府に報告。

3月10日 東京大空襲(死者84,000人)。

3月26日 アメリカ軍沖縄県本島上陸。

4月    <アメリカ> アメリカのジョセフ・グルー国務長官代理は「日本人が現在の天皇制の存続を望むのであれば、無条件降伏は天皇の退位を意味するものではないと、大統領が公式に表明しない限り、日本は軍事的に敗北を喫しようとも降伏する可能性はかなり低いであろう」と話した。

4月5日 <ソ連> ソ連、日本政府に日ソ中立条約不延長を通告。1941年4月に日本ーソ連間で締結されたこの中立条約の不延長をモロトフ外相に突きつけられ、軍部の中にソ連が対日参戦するのではないかという懸念が生じた。その参戦の可能性を除去するために、日本政府は対ソ交渉を開始した。同時にソ連の仲介による「和平」工作を進める動きが始まった。
 この時点から、日本は敗戦まで大きな過ちを犯すことになるのである。ソ連を通して連合国側から日本に有利な降伏条件(具体的には「国体の護持」、すなわち天皇の戦争責任不問、天皇制支配体制の堅持、大日本帝国憲法の存続)を引き出すことにその重点をおく行動に出るのである。ソ連との交渉に目が行きすぎた結果、大局的に物事を見る目が奪われたとも考えられるが、それは「国体の護持」に目がくらんだ結果であると考えるのが正しいだろう。

4月7日 鈴木貫太郎内閣誕生(終戦工作がその任務)。

4月12日 <アメリカ> ルーズベルト大統領死去。トルーマン大統領へ(〜1952年迄)。

5月7日 <ヨーロッパ> ドイツ無条件降伏。

5月8日 <アメリカ> アメリカのトルーマン大統領 日本に無条件降伏を勧告。

5月   <連合国> 連合国間の了解事項として、1945年11月1地に日本本 土上陸作戦を決行することになっていた。

5月8日 最高戦争指導会議(注)(鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、梅津美次郎参謀総長、米内光政海相、豊田副武軍令部総長)ソ連に「和平」の斡旋を求める。ヤルタ会談の後の今となっては、ソ連の対日参戦方針は確定しているので、その望みはないに等しいものであった。

(注)<最高戦争指導会議とは、>1944年8月従来の大本営政府連絡会議を解消したもの。鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、梅津美次郎参謀総長、米内光政海相、豊田副武軍令部総長で構成される。必要に応じて他の国務大臣、参謀次長、を列席させることを可。法制的効力を有しない。

5月9日 鈴木内閣「帝国政府声明」戦争継続を表明。鈴木内閣は「欧州戦局急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化をも与ふるにあらず」として、戦争継続を決めた。表面では戦争継続、裏面ではソ連頼みの「和平」工作が繰り広げられた。

5月11日〜14日 最高戦争指導会議構成員会合(注)ソ連問題を討議  東郷外相はヤルタ会談でソ連の対日参戦は決まっているので悲観的な見通しを持っていた。広田弘毅元首相をソ連との交渉責任者に任命

(注)<最高戦争指導会議構成員会合とは、>最高戦争指導会議が、幹事補佐の軍参謀(佐官クラス)の起案を審議追認する傾向があった。東郷外相がトップ六人だけの会議を提案しこれが認められる。会議内容は出席者以外秘密。法制的効力は、最高戦争指導会議と同じく有しないが、戦争終結に向け重要な意思決定機関となった。

6月8日 第13回御前会議「今後採るべき戦争指導の基本的大綱」について討議。(最高戦争指導会議の要請による)。本土決戦を決定。国体の護持、皇土の保衛の達成を期す。これは陸軍主戦派の意向に沿ったものであつた。

6月8日(9日) 木戸幸一内大臣「時局収拾対策試案」を作成。

(イ)沖縄戦の敗北を認める。 (ロ)今の国力では戦争継続能力の喪失は歴然。 (ハ)戦争が続けば国内は大混乱に陥ること必至。 という内容の、天皇制支配体制の崩壊を回避するための、戦争終結プログラムを作った。天皇、鈴木首相、米内海相、阿南陸相にそれぞれ提示(13日〜18日)され、阿南陸相以外には好意的に受け入れられた。

6月18日 <アメリカ> アメリカの統合参謀本部に提出された、「日本本土に侵攻した場合の犠牲の規模について」の報告書では19万3500人の死傷者を見込んでいる。ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長はトルーマン大統領に50万人の死傷者が予想されると報告。しかしトルーマン自身は数千人の規模と考えていた。

6月20日 東郷外相対ソ交渉について天皇に報告。

6月22日 <アメリカ> アメリカ軍 沖縄戦終結を宣言。

6月22日 天皇、木戸の要請を受け最高戦争指導会議を召集し早期の「終戦工作」を指示。このころから天皇は「時局収拾」終結についての言動が出だす。それはあくまでも「国体の護持」のためであり、国民の現状を考えてのことではなかった。

6月23日 広田弘毅(元首相)、ソ連駐日大使マリク会談。(天皇は、中立の見返りとして満州、南樺太の領土の割譲を考えていた。)29日第3回会談。

6月27日 <アメリカ> ステティニアス国務長官病気辞任。

7月2日 <アメリカ> メイン州選出共和党上院の少数党院内総務ウォレス・ホワイトは、日本の降伏を早めるために「無条件降伏」という語句の意味を明確にするようトルーマン大統領に演説で要求する。「わが国の国益が損なわれたり、われわれの大義名分に傷がついたりするわけではない。文言の意味を明らかにすることで得るものは大きく失うものはない。」

7月3日 <アメリカ> バーンズ国務長官誕生。

7月3日 天皇、藤田侍従長に”対ソ交渉はどうなっているのか、木戸に聞くように”指示。

7月7日 天皇、ソ連から返事がないため、広田[マリク]会談を中止する。鈴木首相を宮中に呼び”対ソ交渉に特使を派遣することを早急に取り運ぶよう”指示。

7月10日 最高戦争指導会議 ソ連への特使派遣を決定。

7月12日 天皇、近衛文麿に特使就任を要請。ソ連との直接交渉に舵を切った。

 この間、天皇の親書を持った近衛特使が、ソ連に派遣されることをソ連駐日大使に連絡。このことは、ソ連との交渉に携わった人間には、この交渉は不可避となった降伏を単に先延ばしにするだけの外交戦術と見ていた。
 元外相の有田八郎は「重慶もしくはソ連、延安を我方に引付け、現在の我が地位を有利に展開せしめんとするが如きは殆んど望み得ざるところならん。然るにも拘らず尚且つこれを試みるとせんか、或は虞る徒に寸刻を争う貴重なる時間を空費するに過ぎざらん」と天皇に上奏していた。

 親書には『天皇陛下におかせられては今次戦争が交戦各国を通じ国民の惨禍と犠牲を日々増大せしめつつあるを御心痛あらせられ戦争が速やかに終結せられんことを念願せられ居るしだい・・・。「太平洋戦争において米英が無条件降伏を固執する限り帝国は・・・戦い抜く」。』とあり、自ら起こした戦争で世界各国民に惨禍と犠牲を与えているのを、あたかも米英の責任に転化し、自分は「国体の護持」で延命をはかろうとする都合のよいものであった。

7月14日 広田の会見申し込みをソ連駐日大使マリクは拒否。

7月14日 <ソ連> ソ連のスターリンとモロトフ外相は共にポツダムへ出発。

7月16日 <アメリカ> 世界初の原子爆弾開発、実験成功。

7月18日 <アメリカ> アメリカが傍受した「無条件降伏が和平への唯一の障害である」という日本の電文の内容を、トルーマン大統領は「日本が戦争状態から脱したいという天皇からの電報」であること認識していた(スチムソン陸軍長官談話)。

7月17日〜8月2日 <連合国> ポツダム会談 アメリカ トルーマン、イギリス チャーチル、ソ連 スターリン。

 ポツダム宣言にはソ連の署名がないが、これはスターリンが署名を拒否したからではない。会談に臨むためにスターリンは宣言草案を持参し、宣言にソ連の意見を盛り込むことを考慮に入れていたのである。(また日本占領についてもソ連軍参加の意思を表明していた。)しかし、宣言にソ連の署名があると、日本に”ソ連の対日参戦”を知らせることになり、日本に原子爆弾を投下するチャンスを逃すことになる。そのために、トルーマンは署名を拒否したのである。
 トルーマンは当初、戦争終結にソ連の対日参戦が有効であると考えていたが、原子爆弾実験の成功報告を聞き、ソ連の参戦がなくともアメリカ案どうりの宣言内容で、日本に無条件降伏を勝ち取れると考えるにいたったのである。スターリンはトルーマンの出方を見て、アメリカは戦争を早期に終結させ、ソ連に約束した譲歩(東ヨーロッパの領土要求、対ドイツ戦で疲弊した経済への援助)を反故にする魂胆であるとの確信を強めた。またソ連は原爆投下をアメリカの対日占領計画の第一歩と見て、日本攻撃開始日とした8月末日をもっと早める決定をするのである。

7月26日 <連合国> ポツダム宣言(別紙−注)アメリカ、イギリス、中華民国 日本に無条件降伏を求める。

7月27日 東郷外相、天皇にポツダム宣言訳文を示し「日ソ交渉が継続中でありその行方を見て結論を」と上奏。

  東郷外相はヤルタ会談jでソ連の対日参戦が決まっているので、日ソ交渉の余地はないと考えていたが、軍部の要求でこの上奏となった。

7月28日 新聞でポツダム宣言の内容が報道されたが、内容は限定的であった。 同時に日本政府の声明として「戦争完遂に邁進,帝国政府は問題とせず」と報 道される。(鈴木首相は「黙殺」するつもりである旨をのべた。木戸日記にこの時のことが書かれていないことから押して、天皇もこの考えに同意していただろう。この時点でもソ連との交渉に期待を抱いていて、降伏か、継続か判断しかねていたものと思われる。)

7月29日 広田、マリク日ソ会談。この会談が事実上最後のものとなる。以後マリク大使は日本の要請に応じず。鈴木首相はポツダム宣言の「明確な拒否」をしないで「黙殺」発言で済ませたのは、天皇、軍部、政府がそれぞれ今取るべき態度をはっきりと持っていなかった結果であろう。事実、ポツダム宣言に対して
◎天皇は、重大な関心を示さなかった。
◎軍部は、政府は拒否の態度をとるべきだ。
◎政府は、受諾したいが、天皇、軍部との兼ね合いでそれができない。
という三者三様の状態で、どんどん深みにはまってゆくのである。さらに悪いことに、天皇はその象徴である『三種の神器』(鏡、玉、剣)を伊勢と熱田から取り寄せて松代の大本営に移そうとしていたのである。この行為は、まだ戦争を続行する・・・すなわち本土決戦の準備を考えていたと思われる。

8月3日 内閣顧問会議召集(浅野セメント社長、日産コンチェルン創始者、日本銀行副総裁など、戦争によって莫大な利益を得ていた実業界代表からなる)。
 『アメリカは非軍事産業の維持と世界貿易への参入を認めている』のでポツダム宣言受諾を勧めた。

8月6日 広島に原子爆弾投下される。(ウラニュウム型)(午前8時15分)。

8月8日 <ソ連> ソ連が中立条約を破棄して対日参戦を布告。

8月9日 最高戦争指導会議構成員会合開かれる。(午前10時30分)

  鈴木首相、東郷外相は、即時停戦。
  阿南陸相、軍部は
@天皇の地位を変更しない。
A本土占領は小規模、短期間とする。
B武装解除は自発的に行う。
C戦犯の処分は日本側が行う。

の四条件が認められることとした。この対立は、この会議後の閣議(2回)でも一致させることはできなかった。

★ソ連軍が満州国境、サハリンの軍事境界線を越えて進軍した。

「トルーマン回顧録」の中でトルーマンは”最終目的が条件降伏という交渉で達成できるなら、戦争の必要はない”と言っているとおり、この軍部の要求は戦争の常識では考えられないことであり、いかに日本の戦争がでたらめであったかの一つの証拠であろう。

長崎に原子爆弾投下される。(プルトニュウム型)(午前11時2分)。

 第14回御前会議(午後2時50分)。
 政局指導の圏外にあった天皇の側近や宮中グループは天皇に「聖断」(注)を迫った。「御前会議」において、ようやく天皇は軍部を犠牲にして自分の保身のため「国体の護持」の道を選択した。

(注)聖断 天皇の決断のこと。「ポツダム宣言」の受諾をめぐって御前会議が紛糾した際、天皇自ら受諾の決断を下した。

8月10日 日本は条件付で「ポツダム宣言」の受諾通告をする。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」というものであった。

8月13日 連合国の回答を受理。

 この回答文は、いわゆる「バーンズ回答」といわれているもので、アメリカ国務長官のジェイムス・バーンズが起草したものである。これは各連合国の同意を取り付けて、8月11日スイスを経由して打電された。その内容は、天皇の地位に関する保証を求めた日本の要請に直接答えるものではなかったが、「宣言」の内容に”国体の護持という日本の要求”を受け入れる項目がないのを補足し、天皇についてのアメリカの考え方を追加したものである。日本は「宣言」の内容を越えるものを明示されたと解釈し、無条件降伏の準備に入って行くのである。

<バーンズ回答文>

 第一項 降伏のときより、天皇、日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合軍最高司令官の下に置かれるものとする。

 第二項 (注)天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障するすることを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍・官憲、および、いずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。

 第三項 日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。

 第四項 日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。

 連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。

(注)アメリカ政府は、天皇が太平洋戦争を開始(真珠湾攻撃も)し、終結することができる日本軍の統帥者であることを認識していたにもかかわらず、占領後すぐに「天皇の戦争責任」を免責してしまう。

(参考)大日本帝国憲法 第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定している。

 この回答文を見た軍部は「・・・連合国軍最高司令官の制限の下・・・」では「国体の護持」はされないと反発を強めた。

8月14日 御前会議(第15回最後)天皇、閣僚と最高戦争指導会議の合同のもの。

 再度の「聖断」となり、降伏することを決定。戦争終結の「詔書」が作られる。詔書はNHKによって録音(盤)され、厳重保管される。このとき天皇は”自分の非常の決意は変わりない。内外の情勢、国内の状態彼我国力戦力より判断して軽がるに考えたものではない。国体については敵も認めていると思う。毛頭不安なし”と言った。終戦の詔書にも
 『朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ
或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ
誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ』とあり、
 天皇は最後の最後まで自らの行く先を心配して「国体の護持」にしがみついていたのである。天皇の眼中には、自らが起こしたこの戦争によって国内外、特にアジアの国々を言語に絶する・・・など微塵もないのである。

8月15日 正午 録音された詔書が放送される(玉音放送)。
この項は(「聖断」虚構と昭和天皇 纐纈厚著 新日本出版社)から引用した。 

「結論」

 アメリカは日本に無条件降伏を求めるための会談、ポツダム会談開始と時を同時に、原子爆弾の実験に成功する。これを知ったトルーマン大統領は、この原爆を使用して日本を降伏させることが出来れば、ソ連と約束した対日参戦の見返りのための領土問題、本土上陸作戦問題(1945年11月1日開始予定・陸軍長官スチムソンは、トルーマン大統領にこの作戦によるアメリカ兵の損失は、最初の30日間で22,576人、次の30日間で11,000人出ると報告した)は必要なくなり、ソ連との対応もやり易く一石二鳥だと考えた。  

 一方ソ連のスターリンは、アメリカの原爆で戦争が終結してしまっては、自国の目的、(領土拡張、経済援助等)が達成できなくなると考え、日本侵攻を早めることを軍部に命令する。その結果8月下旬の予定が、9日実施に決定され、8日に「対日宣戦布告」が出される。
 日本(天皇、軍、政府)の対応は、トルーマンの考えていたように進まなかった。広島に原爆が投下された3日後、さらに2個目の原爆が長崎に投下されても、まだ「国体の護持」が頭にこびりついていた(固執していた)ため、国土の破壊、国民の犠牲に目が向くことはなかった。長崎に原爆が投下された9日、ソ連軍が満州国境、サハリンの軍事境界線を越えて進軍した事実を知って、初めて我に返った。そしてポツダム宣言の受諾の道を歩み始めた。もし、ソ連軍の進軍が遅れていたならば、第3、第4の原爆による死の灰が日本国土を覆いつくし、荒廃はさらに甚大なものになったであろう。  

  
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