東宝争議

東宝争議

 映画産業の東宝では1946年3月に第一次闘争が闘われ、全国的な「10月闘争」では第二次をストライキで闘った。戦争当時軍、政府の映画産業に対する介入(検閲、フィルム・機材の制限等)が敗戦で撤廃されると、今度はGHQ(主に民間情報教育局=CIE)の管轄下に置かれるようになる。そのため、今度はGHQの検閲を通らなければ映画は上映できないことになった。共産党や民主的勢力が大きくなる情勢の中で、東宝にも共産党員を中心に「日本映画演劇労組」(日映演)が結成される。黒澤明、五所平之助、亀井文雄、山本薩夫監督らは「わが青春に悔いなし」「素晴らしき日曜日」「今ひとたびの」「戦争と平和」などを撮った。
 労働組合支配に反対した人々たちは、1947年「10人の旗の会」(渡辺邦夫、大河内伝次郎、長谷川一夫、山田五十鈴ら)を結成し、東宝を脱退。新東宝を設立する。
 1948年4月 第三次闘争 会社側は社長に反共の渡辺鉄蔵、撮影所長に元ILO政府代表の北岡寿逸を当て、第一撮影所分会270名への解雇通告を出した。さらに第二次、第三次解雇通告を出し、砧撮影所を立ち入り禁止にした。それに対して組合側は8月バリケードを築いて所内に籠城した。13日東京地裁は会社の仮処分申請を認め19日に執行された。このとき米軍戦車4台、飛行機(偵察機)3機、第8軍第一騎兵師団50人、日本の武装警官2,000人が、籠城組合員を排除した。『来なかったのは軍艦だけ』というすさまじい日本の労働争議にかってない弾圧が加えられた。
 10月19日、「日映演」と会社間での協議の結果、組合幹部(伊藤武郎、宮島義雄、亀井文男、山本薩夫、山形雄策など)20名の自発的辞職を条件に、妥結した。149日間の闘いであった。

 『もう一度天気待ち』野上照代 草思社 は、1950年5月東宝で1,300人の人員整理があり、マッカーサー元帥の書簡による赤色分子追放のお達し(*1)は、たちまち全国へ浸透し、9月には大映も30名に解雇通知を出している。一方、公職追放されていた戦犯映画関係者29名は、めでたくも全員追放解除、続々と現場へ返り咲いた。(野上照代氏は、このことを「その勢力交代するさま、いと、おかし」と書いている)1951年3月東宝は全映演(*2)と労働協約改定を行い、新しい労使関係に転換していた。分裂していた新東宝からは監督、スター、キャメラマンが相次いで砧の撮影所へ戻ってきた。と、記述している。

 (*1)1950年6月6日 マッカーサー元帥から吉田茂首相に出された指令。日本共産党中央委の全員追放指令のこと。レッド・パージの項参照のこと。

 (*2)全映演とは 全国映画演劇労働組合(連合加盟)1947年5月1日設立のことで、東宝争議を機に日本映画演劇労働組合(日映演)東宝支部から分裂した。新東宝に所属する労働者を中心に結成。

 (注) 労働運動の全国的発展に対し、経営者側はだまって見ていたわけではない。1948年4月12日労働問題対策を扱う「日本経営者団体連盟」(日経連)を結成し、その対応に当たった。現在、日経連は、その使命を果たしたということで経団連に統合(2002年5月28日)されて、活動停止の状態にある。1986年に施行された「労働者派遣法」が1999年に実質原則的に自由化され、労働組合組織率が2000年には21.5%と20%を切る状態に落ち込んだというのがその理由だろう。
この項は「占領と民主主義 神田文人著 小学館 昭和の歴史第8巻」から引用した。

 「わが青春の黒澤明」植草圭之助著 文春文庫より『いいじゃねえか。作品で勝負すりゃ。腕で来い腕で!』黒澤明は東宝争議で「新東宝を作って脱出した者たち」との対決を作品でもって行った。そのため、彼の作品はすべてが素晴らしい出来となっている。同時に多くのファンを獲得するという結果をもたらした。当時組合に残った黒澤をはじめとする多くの映画人には『腕で来い』の気概があふれていた。スターがいなくても、新人を使って彼らをスターに仕上げていった。

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